あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
ペテロの手紙 第一 1:8
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先日の礼拝で2人の中学生の洗礼式があった
受洗者は会衆の前で信仰告白をする。これまでの歩みや神との出会い、イエスを自らの救い主として受け入れる決心、そしてこれからの歩みを神に委ねることへの決意を聞いた。
以前、ここにも記したように、受洗者からは事前に賛美のリクエストをもらっており、1人はStill(静まって知れ)であった。そして、もう1人はGod bless youであった。
着替えに時間がかかることから、サブのリクエストもあって、Nothing but the blood of Jesus(罪の汚れを)とBecause He lives (主は今生きておられる)の2曲であった。
リクエストはどれもクラシックで、ノリやテンポがいいというより、しっとり歌詞を噛み締めながら歌う感じである。
2人の証しを聞いていても感じたことだが、中学2年生にして信仰が成熟している。選んだ賛美も実に大人っぽい。
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今日の聖句は、1人の証しの中で紹介されていたものだ。
彼女はクリスチャンファミリーに育ち、幼い頃から神の存在を疑うことなく素直に成長した。その成長をずっと見守ってきた者にとって、受洗の場に立ち会えることは大いなる祝福である。
証しでは、神さまが自分を守ってくれることを当たり前に思っていたものの、徐々に心が離れている感覚も同時にあったこと。特に中学生になってからは祈ることもしなくなっていたこと。しかし、夏のキャンプで原罪のことを学び、自分の罪について深く考えたこと。そして、洗礼に導かれたこと。
時系列に沿って彼女自身の心の動き、揺らぎ、決意が語られた。
自分の罪の性質(罪性)に気付き、それを受け入れ(認罪)、会衆の前で公に言い表す信仰告白へと導かれた。
14才が語る信仰の旅路。自然と涙が出る。
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この聖句を2節前の6節途中から引用してみる。
今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。(第一ペテロ 1:6-8)
私たちはイエスに会ったことはない。しかし、信じている。愛している。喜び踊っている。
試練にあうとき、その試練によって磨かれた私たちの信仰は何よりも高価で、終わりのときにはその信仰をもって神を称賛し、栄光を表し、誉れをもたらす。
これはまさに信仰の旅路の終着点と言えるだろう。
リクエストされた賛美をドラムで奏でながら、みことばを噛み締め、彼女たちのこれからの歩みに主の導きと守りがあることを願った。