聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

おくりもの

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あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。

詩篇 139:3
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高校生の娘が塾に通い始めた。

半年ほど留学していたため一般入試は眼中になく、AO入試(今は総合型選抜という)や指定校推薦、公募推薦を考えており、その対策のためである。

一般入試であれば、ペーパーテスト対策だから5科目の勉強をすればいいのだが、推薦狙いとなるとそういうわけにはいかない。

となると、個人で対策するには限界があり、そこで専門家の手を借りることにしたのだ。

今、自分史を作っている。

志望理由書にしろ、小論文や面接にしろ、その対策をするには、まずは自分を知ることから始める。過去の自分を知ることで、現在の自分を客観視できる。そこから将来のありたい姿を探る。

そう言われたらしく、毎晩PCのキーをカタカタ叩いている。

16才17才の段階で、このように自分を振り返る時間を持てるのは大切なことだし、素晴らしいことだと思う。

自分史に取り掛かった娘は、まず始めに、生まれた頃のことを私と妻にインタビューした。

よく寝る子だった。

夜泣きがなく、だから夜中に起こされて寝不足になることはなかった。どんなに昼寝をしても夜もちゃんと寝る、そしてひとたび寝ると朝まで眠り続ける、夜中に寝ながら授乳するなんてこともよくあった。

「かみさまからのおくりもの」という絵本がある。
https://www.kogumasha.co.jp/product/222/

「ほっぺのあかいあかちゃんには このおくりものがいい。とどけておくれ」
「はい かしこまりました」
「てんしがはこんできたおくりものは よくわらう でした」
「あかちゃんは よくわらう あかるいこどもになりました」

よく笑う、よく食べる、歌がすきなど、どんな子どもでも、生まれるときに神さまから贈りものが与えられる。そんな素敵な絵本である。

当時、この絵本を読んで、うちの子は間違いなく「よく寝る」だと感じたものだ。

よく寝る娘は、寝返りを打つようになり、ハイハイするようになり、座って、そして立って、歩くことができるようになった。なんのトレーニングをするでもなく、もちろん保育園のおかげもあるにはあるが、自然に歩くことも伏すこともできるようになった。

当たり前に思っているが、この当たり前は奇跡の連続で成り立っているのは間違いない。そのことについて、私たちは何もわからないし、何も知らない。それは、神さまだけが知っている。

私たちを造り、この世に誕生させてくださった神さまは、私たちが歩くのも伏すのも見守り、私たちの道のすべてを知り抜いておられる。

子どもは「授かりもの」と言うが、それは神さまから私たちが親として授かった、預かった、任された「おくりもの」である。

子どもの年齢は、また親としての年齢でもある。

子どもが1才なら親も1才、子どもが10才なら親も10才。子どもの成長と親の成長は同時進行なのだ。そして、それを支えてくれるのは、授け主、預け主、贈り主である神さまである。

すべてを知り抜いておられる神さまがいるから、私たちは安心して自分の歩みを委ねることができる。

これからの歩みも神さまに委ねよう。

娘は明日で17才になる。

 

変えてください

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この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

ローマ人への手紙 12:2a
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不思議な聖句だ。

命令文が2つ並んでいるのだが「否定の命令形」と「受身の命令形」が対句になっている。日本語よりも英文の方が理解しやすいかもしれない。

Do not conform to the pattern of this world. Be transformed by the renewing of your mind.

2つのポイントを示そう。

1つは、conformとtransformについて。もう1つは、受身の命令形について。

「フォーム:形」を意味するformに、con-/trans- という接頭辞がつくとどうなるか。

con-には「一緒に」という意味があるから、conformは「適合する」となる。trans-には「移す」という意味があるから、transformは「変形する」となる。

「この世と調子を合わせてはいけません」は、俗的で肉的な生き方をしないように、という命令である。

リビングバイブル訳を見てみると「この世の人々の生活や考え方をまねしてはいけません」とあって、さすがわかりやすい。

後半の「心を新たにすることで自分を変えていただきなさい」は、自力ではなく神に頼んでリニューアルされることを命じている。

同じくリビングバイブル訳を見てみると「なすこと考えることすべての面で生き生きとしたまったく新しい人となりなさい」とあって、これまたわかりやすい。

さて、リビングバイブル訳では、Be transformed by the renewing ~が「新しい人となりなさい」と訳されているが、これでは残念ながら「受身の命令形」になっていない。

「変わりなさい」と命じられたら、自分の力で変化しようと努力してしまうだろう。

世の中は「変わりたい」願望に溢れている。ダイエットや整形といった外見的な変化はまさにそうだし、コスプレのような変身願望もまたそうである。

また、ネガティブ思考だからもっとポジティブになりたいなど、内面的な変化を求めて努力する人も多いだろう。

ビジネスにおいても、外見や内面は常に変化し続けている。

変化というよりは、ブラッシュアップとかリスキリングとかの片仮名ワードで上手に包められて、スキル向上による変化を半ば強制的に自分に課しているような気がする。

変わりなさいと、変化を求めているのは組織だったり管理職だったりするかもしれない。

が、自分自身が変わりたい、変わらなきゃと思っているように錯覚し、変わらないと居場所がなくなると自分を追い込んだりすると、これは危険な状態である。

クリスチャンは、自分の力を過信して、自分の力ですべてを為そうとすることの虚しさを知っている。

神と自分を仲介する存在としてイエスキリストがいる。

神が私たちに「変わりなさい」と命じているのではなく、イエスが私たちに「(神に)変えていただきなさい」と命じる。もう少し直接的に表現すると「変えられなさい」となる。

自分が「変わりたい」と思うとき、自分の力で為そうとするのではなく、神の前にへりくだり「変えてください」と求めよう。

「変わりたい」気持ちを否定するのではない。外見はともかく、内面の変化を求めるときこそ神に「変えてください」と祈る。

些細なことにすぐに腹を立ててしまう短気な自分を改めさせてください。柔和で寛容な性格にしてください。顧客や同僚と会話をするときに思いやりを忘れずにいられるようにしてください。

祈りによって内面が変えられると表情が変わり、態度が変わり、行動が変わる。そうして外見にも変化が見られる。

あるとき過去の自分を振り返り「あぁ、私は神に変えていただいたのだなぁ」と実感するときが来る。楽しみではないか。

新しい年を迎えて

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すべての国々よ、主をほめたたえよ。すべての国民よ、主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。

詩篇 117:1-2
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今年の正月は穏やかに始まった。

帰省先の実家でのんびりとコーヒーを飲みながら、朝の陽射しをたっぷり浴びて、文字通り新春を感じていた。

午後からは親戚たちが入れ替わりで実家を訪れ(いわゆる田舎の長男の家なのだ)、おせちをつまみビールを飲み、お互いの近況を話しては笑い合った。

そうして夕方4時を回ったころ、全員の携帯が一斉にけたたましく鳴った。地震発生のアラームだった。すぐにTVをつけて観ていると、次第に自分たちも揺れを感じるようになった。

速報から1分2分くらい遅れて、ゆっくりとであるが大きな横揺れが襲った。震度は3か4だろうか、すぐに収まらずしばらく揺れが続いた。

新年の集いはすぐに散会し、みな帰路についた。

2024年の幕開けは穏やかに始まったと思っていたが、うららかな陽気とは裏腹に、大きな自然災害に見舞われるスタートとなった。

震源能登半島を中心に日本海側の多くの地域が被災した。冬の日本海にあって、断水や停電とあっては、厳しい寒さにさぞ凍えるに違いない。

徐々に被害の全容が分かり、必要な支援が明らかにされるだろう。被災された方々を支援する具体的な方法が示され、なるべく早い段階で、国内外からの支援が被災地に届くことを願う。

このようなとき、クリスチャンとして祈ることは、被災された方々の心と身体のケア、特に年老いた方や幼い者たちの生命が守られることである。

さらに、被災地の復興である。そのために物心両面でのサポートが適切に与えられることである。

加えて、それでも私たちは神を見上げて、神をほめたたえることができるよう祈り求めることである。

苦しいときの神頼みという言葉がある。

普段は信仰など持たない者が、病気や災難で困ったときだけ神仏に助けを求めることである。

一方で、この世に神などいないと言う者もいる。

映画「乱」でピーター演じる道化が主君の死に際して「神も仏もいないのか!」と天に向かって叫ぶときや、小説「沈黙」でフェレイラが「神はいないのか?」と神に失望するときなどはそうである。

私たちは私たちの都合に合わせて神を崇めたり貶めたりする。あるときは神頼みし、またあるときは神を恨む。そして神の存在を否定する。

神は普遍であり偏在なる存在であるのに、自分が理解できるレベルに引き寄せて、自分サイズの神として手元に置きたがる。

だからこそ、私たちにはみことばが必要だし、神はことばとなって私たちを支えてくださる。

信仰があるからみことばを唱えるのではなく、みことばを唱えることによって信仰は強められる。

主の愛と恵みは私たちが測ることができないくらい大きい。主の真実と正義もまたとこしえまで。

新しい年も主とともに歩む。

 

 

仕える者

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エスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

マタイの福音書 9:9

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2023年の最後を締め括る聖句を…と思っていたが、今年の漢字のニュースを読んで予定を変更した。

今年の漢字NHKニュース)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231212/k10014285311000.html

「税」であった。

てっきり昨年と同じ「戦」だろうと思っていた。ウクライナ、そしてパレスチナと、戦争のニュースに心を痛めることが多かったから。

「税」が1位になった理由を見てみると、確かに多くの人にとって大きな関心事であったことがよく分かる。日々の暮らしに直接的な影響を及ぼす「税」だから、増税や減税のニュースに敏感になるのも仕方ない。

それでも世界に目を向けて、多くの人が命を落としている現実を知り、平和を求め祈ることを最優先したい。

「和・穏・幸…」といった漢字が世相を表す世の中になることを願う。

そんなこんなで「税」に引きずられてしまい、今年最後の聖句は、マタイがイエスに招かれたときの1節にした。

「マタイの福音書」を書いた使徒マタイの職業は取税人であった。「税」を払う側ではなく貰う(取り立てる)側にいたのがマタイである。当時の取税人は民衆に大変嫌われていた。

なぜなら、取り立てた税金は当時ユダヤを支配していたローマのものであり、取税人はローマの手先と見なされていたからだ。

マタイがなぜ取税人という職業であったのか、代々受け継いだものなのか、マタイが望んだのか、せざるを得ない状況にあったのか、それは分からない。

私たちには分からないが、イエスははっきりと分かっていた。分かっていたからイエスはマタイを弟子として招いた。立派な人物だから招いたのではなく、マタイの心に触れ、悔い改めの招きをした(機会を与えた)のだ。

エス自身も「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため(マタイ9:13)」と証言している。

まさに「人はうわべを見るが、主は心を見る(第一サムエル16:7)」である。

さて、取税人に求められるスキルとは何だろう。

ユダヤの地は東西南北の交通の要所であり、さまざまな国の人々が行き交った。マタイはそれらの人から正しく通行税を取り立てる必要があった。

そうすると必要なスキルは、語学力・計算力・記述力の3つであろう。

マタイは後に「マタイの福音書」を書く。その書き始めは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト系図(マタイ1:1)」であり、イエスがアダムから繋がる聖書に預言されたメシアであることを記している。

取税人として働いていたマタイのスキルは、福音書記者として如何なく発揮された。彼の語学力や記録によって、キリストの福音がユダヤ人のみならず2000年のときを経て現代の私たちにも届いている。

取税人からイエスの弟子、そして福音書記者へと、大いに変えられた人生、想像すらしなかった人生を送った人、それがマタイである。

マタイという名前の意味は「神の贈り物」だと言う。マタイがイエスとの出会いによって、人生を180度方向転換し、取り立てる者から仕える者へと変えられた。

私たちも人生のあるタイミングで「わたしについて来なさい」と招かれる。

その招きを受けて、なお座り込んでいるのではなく、立ち上がって喜んでついて行く者でありたい。
 

 

種-神のことば

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涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。

詩篇 126:5

Those who sow with tears will reap with songs of joy.

Psalm 126:5

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聖書で「種」といえば、神の「ことば」を表す。

エスキリストはいろいろな例えを用いて語るのだが、それは神の真理をわかりやすく伝えるためである。

その1つに「種まく人のたとえ」がある。

種まきといっても日本のように土の中に置いて行くのではなく、ミレーの絵にあるように、腰に巻き付けた布袋から種を手につかみ土の上に振りまく、あのイメージである。

エスの例えでは、種が落ちる場所とその結末が4パターン示されている。

(1) 種が道端に落ちると、鳥が来て食べてしまう
(2) 種が土の少ない岩地に落ちると、芽が出ても根付かずに枯れてしまう
(3) 種が茨の中に落ちると、芽が出ても身を結ばない
(4) 種が良い地に落ちると、芽生え育ち豊かな実を結ぶ

この例えに対して、イエス自身が解説しており、そこで「種蒔く人は、みことばを蒔くのです(マルコ4:14)」と、種=神のことばであることがわかる。

種、つまり神のことばが私たちの心にまかれる。

そのときの私たちの心はどの状態であろうか。喜んで受け取っているだろうか。それとも悲しさや苦しみを抱きながらだろうか。

マルコ4章には、イエスによる詳しい解説があるからここでは触れない。

「種まく人のたとえ」では、種をまく人が神で、まかれる土地が私たちと設定されている。

それを踏まえつつ、今日の聖句に照らしてみる。詩篇126:5は「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」とある。

ここで、涙とともに種をまく人を神ではなく、神がまかれたことばを受け取る自分とする。喜び叫びながら刈り取るのも自分とする。

そして、これまでの自分の歩みにおいて、涙とともにみことばを受け取ったときのことを思い出す。

健康を損ね療養しているとき、マタイ11:28を受け取って、救われた。

仕事を失い生きる気力を無くしているとき、第一コリント10:13を受け取って、救われた。

健康も仕事も、失ってその大切さに気付く。

もちろん、健康を損ねれば病院に行くし、仕事を失えばハローワークに行く。そこで出される薬や求人票によって失ったものを取り戻す。

しかし、神のことばという処方箋は失った人生そのものを取り戻すとてつもない力を持っている。生き方を180度方向転換させるほどの力を持っている。

その恵みに触れたとき、私たちは喜んで刈り取りのときを迎える。それが祝福である。

最後にパウロの言葉で締めたい。

Rejoice always. 受け取った種を実らせるための私たちの態度である。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ 5:16-18)

ザカリアの預言

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主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。

ルカの福音書 1:74

…to rescue us from the hand of our enemies,and to enable us to serve him without fear.

Luke 1:74
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ルカ1章を読み終えた。

最後は祭司ザカリアの賛美(預言)で締め括られている。

1章の書き始めには「ユダヤの王ヘロデの時代にアビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた(1:5)」とあるから、ザカリアに始まりザカリアに終わるのがルカ1章、ということになる。

ザカリアの話に挟まれているのが、マリアの受胎告知と賛歌であり、ザカリアの妻であるエリサベツを尋ねることであり、エリサベツの賛歌であり、バプテスマのヨハネが誕生したことである。

ヨハネが誕生すると「ザカリアの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた(ルカ1:64)」。

そしてザカリアによる神への賛美へと繋がる。

この構成と内容に、著者ルカの医者としての描写力や記述力が発揮されている。

明らかに記録として、歴史として残そうとする意思が感じられる。

「私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています(1:1)」とあるように、ルカが福音書を書く以前に、すでに多くの人がイエスのことを記したり、話したりしていた。

ルカによれば「すべてのことを初めから綿密に調べて(1:3)」いるのだから、この福音書は時系列に沿って丁寧に描かれていると信じてよい。

1章にはイエスが誕生する前の話が記されている。いわゆる序章である。

しかし、序章にもかかわらず登場人物はみな重要だし、みな聖霊に満たされ賛美しているし、序章だからと軽んじることはまったくできない。むしろドラマチックな展開にすら思える。

この序章を経て、2章では、イエスが馬小屋で誕生する、クリスマス礼拝で子どもたちがページェント(演劇)でよく演じるあの場面に進んでいく。

ルカ1章を読み終えて心に残ったのは、最後のザカリアの預言で語られた今日の聖句であった。

…敵から救い出される。恐れを取り去られる。主に仕えさせてくださる。

恐れの感情はすべてが悪ではなく、神に対する正しい恐れ(畏れ)はあってよい。しかし、人に対する恐れはできればない方がいい。

けれど、私たちは人を恐れる。そればかりか、健康を恐れ、環境を恐れ、未来を恐れる。

ルカの福音書は、人を恐れ未来を恐れた弟子たちがイエスと出会い、人生を変えられるストーリーと見ることもできる。

私たちはそこに自らを重ねて、イエスと出会い、救われ、恐れを取り去られ、仕える人生を望む。

ルカの福音書は、復活のイエスが天に帰られた後の弟子たちの描写で幕を閉じる。

「彼ら(弟子たち)はイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた(ルカ24:52-53)」

喜びをもって主をほめたたえよう。

 

マリアの確信

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主の憐れみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。

ルカの福音書 1:50

His mercy extends to those who fear him,from generation to generation.

Luke 1:50

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ルカの福音書1章を読み進める。

天使ガブリエルによって神の子を宿すことを告げられたマリアは、戸惑いと恐れを抱きつつも、最終的にはその状況を受け入れた。

私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように(ルカ1:38)

これはマリアの謙遜であるが、謙遜というとどうしてもpassiveな印象を持ってしまう。

しかし、同時に思うのは、受胎告知のショックを克服するためには謙遜さだけではなく、もっと強く積極的な感情が作用したのではないか、ということ。

神に選ばれし聖母といっても、いまの中高生程度の年齢のマリアには、もっとaggressiveな側面もあったと思う。

心の奥底から湧き上がる感動にカラダが熱くなったり、ほとばしる喜びを必死で押さえ込んでいたりしたかもしれない。

むしろそう想像する方が自然だ。

現に「それからマリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った(1:39)」とあるように、マリアは居ても立ってもいられなくなって、外に飛び出して行った。

親類のエリサベツに会うためである。

それは、ガブリエルから「あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です(1:36)」と告げられていたからである。

実は「ルカの福音書」はエリサベツの夫である祭司ザカリアの話から始まる。

天使ガブリエルは、いきなりマリアに受胎告知をしたのではなく、まずは祭司ザカリアに現れ、イエスの前に生まれるヨハネが妻エリサベツに与えられることを告げた。

神の計画は実に用意周到である。

マリアの訪問を受けたエリサベツは聖霊に満たされ、マリアを祝福した。エリサベツの祝福を受けたマリアはそれに応答するように神を崇め、喜び讃えた。

俗に「マリアの賛歌」と言われる有名な箇所である。その前半部分を引用したい。なぜなら、そこにマリアの謙遜と決意の両方が見られるからだ。

私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主の憐れみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。(1:46-50)

自らを主のはしためとする自己認識、そこにマリアの謙遜を見る。

と同時に、主が自分に大きなことをしてくださったと言うところにマリアの決意を見る。

そして、主の憐れみが代々限りなく及びますと断じるところにはマリアの確信を見る。

マリアの確信、そのベースにある全き信仰によって、イエスがこの世に来られ、十字架の死によって、絶えることなくいまを生きる私たちにも神の恵みが注がれ続けている。

ハレルヤ。