すべての国々よ、主をほめたたえよ。すべての国民よ、主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。
詩篇 117:1-2
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今年の正月は穏やかに始まった。
帰省先の実家でのんびりとコーヒーを飲みながら、朝の陽射しをたっぷり浴びて、文字通り新春を感じていた。
午後からは親戚たちが入れ替わりで実家を訪れ(いわゆる田舎の長男の家なのだ)、おせちをつまみビールを飲み、お互いの近況を話しては笑い合った。
そうして夕方4時を回ったころ、全員の携帯が一斉にけたたましく鳴った。地震発生のアラームだった。すぐにTVをつけて観ていると、次第に自分たちも揺れを感じるようになった。
速報から1分2分くらい遅れて、ゆっくりとであるが大きな横揺れが襲った。震度は3か4だろうか、すぐに収まらずしばらく揺れが続いた。
新年の集いはすぐに散会し、みな帰路についた。
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2024年の幕開けは穏やかに始まったと思っていたが、うららかな陽気とは裏腹に、大きな自然災害に見舞われるスタートとなった。
震源の能登半島を中心に日本海側の多くの地域が被災した。冬の日本海にあって、断水や停電とあっては、厳しい寒さにさぞ凍えるに違いない。
徐々に被害の全容が分かり、必要な支援が明らかにされるだろう。被災された方々を支援する具体的な方法が示され、なるべく早い段階で、国内外からの支援が被災地に届くことを願う。
このようなとき、クリスチャンとして祈ることは、被災された方々の心と身体のケア、特に年老いた方や幼い者たちの生命が守られることである。
さらに、被災地の復興である。そのために物心両面でのサポートが適切に与えられることである。
加えて、それでも私たちは神を見上げて、神をほめたたえることができるよう祈り求めることである。
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苦しいときの神頼みという言葉がある。
普段は信仰など持たない者が、病気や災難で困ったときだけ神仏に助けを求めることである。
一方で、この世に神などいないと言う者もいる。
映画「乱」でピーター演じる道化が主君の死に際して「神も仏もいないのか!」と天に向かって叫ぶときや、小説「沈黙」でフェレイラが「神はいないのか?」と神に失望するときなどはそうである。
私たちは私たちの都合に合わせて神を崇めたり貶めたりする。あるときは神頼みし、またあるときは神を恨む。そして神の存在を否定する。
神は普遍であり偏在なる存在であるのに、自分が理解できるレベルに引き寄せて、自分サイズの神として手元に置きたがる。
だからこそ、私たちにはみことばが必要だし、神はことばとなって私たちを支えてくださる。
信仰があるからみことばを唱えるのではなく、みことばを唱えることによって信仰は強められる。
主の愛と恵みは私たちが測ることができないくらい大きい。主の真実と正義もまたとこしえまで。
新しい年も主とともに歩む。