主の憐れみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
ルカの福音書 1:50
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His mercy extends to those who fear him,from generation to generation.
Luke 1:50
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ルカの福音書1章を読み進める。
天使ガブリエルによって神の子を宿すことを告げられたマリアは、戸惑いと恐れを抱きつつも、最終的にはその状況を受け入れた。
私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように(ルカ1:38)
これはマリアの謙遜であるが、謙遜というとどうしてもpassiveな印象を持ってしまう。
しかし、同時に思うのは、受胎告知のショックを克服するためには謙遜さだけではなく、もっと強く積極的な感情が作用したのではないか、ということ。
神に選ばれし聖母といっても、いまの中高生程度の年齢のマリアには、もっとaggressiveな側面もあったと思う。
心の奥底から湧き上がる感動にカラダが熱くなったり、ほとばしる喜びを必死で押さえ込んでいたりしたかもしれない。
むしろそう想像する方が自然だ。
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現に「それからマリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った(1:39)」とあるように、マリアは居ても立ってもいられなくなって、外に飛び出して行った。
親類のエリサベツに会うためである。
それは、ガブリエルから「あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です(1:36)」と告げられていたからである。
実は「ルカの福音書」はエリサベツの夫である祭司ザカリアの話から始まる。
天使ガブリエルは、いきなりマリアに受胎告知をしたのではなく、まずは祭司ザカリアに現れ、イエスの前に生まれるヨハネが妻エリサベツに与えられることを告げた。
神の計画は実に用意周到である。
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マリアの訪問を受けたエリサベツは聖霊に満たされ、マリアを祝福した。エリサベツの祝福を受けたマリアはそれに応答するように神を崇め、喜び讃えた。
俗に「マリアの賛歌」と言われる有名な箇所である。その前半部分を引用したい。なぜなら、そこにマリアの謙遜と決意の両方が見られるからだ。
私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主の憐れみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。(1:46-50)
自らを主のはしためとする自己認識、そこにマリアの謙遜を見る。
と同時に、主が自分に大きなことをしてくださったと言うところにマリアの決意を見る。
そして、主の憐れみが代々限りなく及びますと断じるところにはマリアの確信を見る。
マリアの確信、そのベースにある全き信仰によって、イエスがこの世に来られ、十字架の死によって、絶えることなくいまを生きる私たちにも神の恵みが注がれ続けている。
ハレルヤ。