聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

ペテロの希望

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神は、ご自分の大きな憐れみのゆえに、イエスキリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。


ペテロの手紙第一 1:3


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前回は、使徒ペテロがローマ人の百人隊長コルネリウスとその家族に向けて語ったメッセージを取り上げた。


そして、キリストの復活が私たちに希望をもたらすと書いた。


今回は、同じペテロが晩年に書いた書簡から。


激情型のペテロも年を重ね、言い回しが丁寧になり、そして重みを持つようになった。


そうそう、聖書に断片的な登場するペテロの言動と彼の書簡を参考にして、ペテロの一生を聖書のサイドストーリーとして描けたらいいなぁと思っている。


ペテロの霊的な成長、リーダーシップなんかが垣間見れるはず。


そして、多くの方が共感するはず。もちろん私も。



ペテロの人生には何度か大きな転機があった。


①イエスとの出会い
②イエスの十字架の死
③イエスの復活


数えると3回になる。すべてイエスに絡む。


エスと出会わなければ、ペテロの人生は何も変わらず、ガリラヤ湖の漁師のままだった。


エスと出会ったことで、仕事も家庭も捨て、魚を獲る漁師から人間を獲る漁師に変えられた。希望と勇気に満ち満ちた新しい人生がスタートした。


しかし、生ける神と認めたイエスが、死に向かうことが納得できずに、イエスに刃向かうと激しく叱責され、挙句サタン呼ばわりされた。


最も激しくイエスを愛し、そして最もたくさんイエスから叱咤されたペテロ。彼は、結局、イエスの十字架の死を目前に逃げ出した。


しかも、それはイエスに予言されていた。


エスを知り、イエスを信じ、なのにイエスを捨てた。後悔のどん底にいたペテロは故郷に戻り、ガリラヤ湖で久しぶりに漁をする。


虚しさを打ち消すために漁に出たはずなのに、1匹も獲れない。


そこで、復活のイエスに出会う。


…このシーンは、涙なくして読めない。


60分で正しく、深く味わいましょう。
https://message-station.net/episode/1259/



今回取り上げたペテロの言葉から、彼の実体験に基づく確信が伝わってくる。


エスの死によって、私たちは新しく生まれ変わったこと、生きる望みを持たせてくださったことを強調している。


神に背を向け生きてきた古い自分から、神とともに歩む新しい自分へ。


生きていることに価値が見出せなかった霊的に死んでいる自分から、生きることに希望を抱くようになった自分、霊的に生まれ変わった自分へ。


そのことを自分個人に適用して、私は信仰を持った20年前のことを思い出すのだ。


ペテロの人生は、私にとって決して他人事ではなく、いやむしろ、深く共感できるものである。ペテロの弱さも失敗も奢りも悲しみも、すべて自分の中にあるものだからだ。


だから、晩年のペテロの確信に、私は勇気づけられる。


続く7節には


試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。


とある。


私たちの信仰は金より高価である。実際、安全資産と言われる金はここにきて急落しているではないか。しかし、信仰、しかも試練によって精錬された信仰は下落しない。


うれしいではないか!

復活の希望

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神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。


使徒の働き 10:40


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4月12日はイースターだった。


いつもならば、恒例のエッグハントを子どもたちと一緒に楽しんでいた。近隣の公園に出向き、中にチョコが入った擬似たまごをあちこちにたくさん仕込み、ヨーイドンで子どもたちは一斉に探しに行く。


約束していた数よりたくさん取ってしまったり、取り合いになって喧嘩したり、なかなか見つけられずにベソかいたり、そんないつもの光景が今年はなかった。


もちろん当日は春の嵐のようなひどい雨だったから、そもそも開催はできなかった訳だが、そういうことではなく、子どもたちの姿を見られないことが本当に寂しい。


学校が休校になり、教会で礼拝を行わなくなり1ヶ月以上になる。子どもたちは毎日どう過ごしているだろうか。家族と楽しく過ごしているだろうか。イースターをお祝いすることはできただろうか。


子どもたちの心と身体が健康で健全であるように願う。



さて、イースターというと、復活であることはクリスチャンじゃなくても知っている。


そう、イエスキリストが十字架で死んだことも、その後復活したことも歴史的事実として知られている。


しかし、事実として理解していることと、それを受け入れ信じることとの間には、とてつもなく大きな隔たりがある。


エスは死んだことは知っている。けれど、それは私の罪の身代わりとしてであると信じるか?


エスが甦ったことは知っている。けれど、それは罪の代償である死に打ち勝ったこと、そして、死の先には尽きることのない命があること、それを信じられるか?


父なる神と断絶したイエスが、再び父によって甦られたこと。この歴史的証人こそ、イエスの弟子たちである。なかでも筆頭弟子ペテロの証しは、私たちに希望をもたらす。



新約聖書使徒の働き10章は、ペテロとローマの百人隊長コルネリオの話である。


救いはユダヤ人だけのものと確信していたペテロが聖霊に導かれて、ローマ人コルネリオに会う。すると、彼は割礼こそ受けていないが神を畏れる信者であった。


ユダヤ人にとってローマ人は異教の民、すなわち異邦人であり、彼らが救われるなんて思いもしなかったペテロだが、コルネリオに会い話を聞いて得心するのだ。
 
「神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます」


この宣言は、現代の私たちにも適用してもよい。ペテロが開いた異邦人への救いの道は、二千年を経た今も有効である。


不安や恐怖に心が擦り減ってしまうが、神の救いの道は、私たちに希望の光を照らす。神に依り頼もう。復活の主は今も生きておられる。


使徒10章を詳しく解説しているサイトはないか探したところ、北海道のとある教会のメッセージがとても分かりやすかった。


https://shikaoichurch.com/2018/04/13/the-pentecost-of-the-stranger/

 

 

 


Stay Homeな日々でも元気に賛美。復活の主をほめたたえよう!


♪ Lord, I lift your name on high
https://youtu.be/3tWSu9NAFIk

苦難の中で

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私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。


コリント人への手紙 第二 4:8


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4月8日だから4章8節。


狙ってるみたいだが、まったく偶然だ。


今週は受難週。キリストの従順と十字架の死、埋葬、そして復活に思いを寄せるときである。


緊急事態宣言により、不要不急の外出を控えているため、自宅で過ごす時間が多くなる。不謹慎な物言いになるが、おかげで普段以上に読書をしたり、聖書のみことばに触れたりすることができる。


心はざわついており、憂いを常に纏っている感じではあるものの、静思のときを保つよう努めている。


静まりたいときは、詩篇を読むのが一番いい。自分の内面に、みことばがじんわり染み込んでくる感じ。


神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ海のただ中に移ろうとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡だっても、その水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ(詩篇46:1-3)



かつて経験したことのないウイルスの脅威に晒され、企業はその対応に四苦八苦している。


私の会社でも、特別かつ煩雑、そして緊急の顧客対応が増加しているが、社員が自宅勤務になり人手が足りないという事態に陥っている。


私のような営業職は、外回りができず、電話やメールを使って顧客とやりとりをするしかない。


しかし、一歩引いて考えてみれば、上述したように、こんなときだからこそ、自らの仕事を見直したりできるし、営業に関する書籍を読むなどしてスキルアップを図ることができる。


会社にとっても、これまで踏み込めなったデジタル面の強化ができたり、顧客の切実なニーズを捕らえるキッカケになったりもする。


悪いことばかりではないのだ。



聖書にもウイルス(疫病)の記述がある。


例えば、創世記には、アブラム(後のアブラハム)を守るためにエジプトを疫病で打ったという記述がある。民数記には、不平不満を述べる民を神が疫病で打つと警告している。


しかし、主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわい(疫病)で打たれた。(創世記 12:17)


わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。(民数記 14:12)


新約聖書では、イエスが終末時代を語る場面。


大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。(ルカの福音書 21:11)


現在の状況下でこれらの記述を読むと、もはやこの世の終わりかと、暗澹たる思いになりがちである。


しかし、そこに止まってしまうのではなく、あくまでも未来志向でいたい。


パウロは激励する。


私たちは苦しめられるが、困窮しない。私たちは途方に暮れるが、行き詰まらない。


そうだ。裁きがあって救いがある。絶望があって希望となる。死があって永遠のいのちを得る。


目線は、前だ。

 

 

 


Q. 新型コロナウイルスの広がりをどう理解すべきですか?
http://seishonyumon.com/movie/6342/

感謝と喜び

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また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。


ピリピ人への手紙 4:19


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感謝と喜び。


この2つは対になっている。感謝の気持ちが喜びに繋がるし、喜びは感謝に変えられる。


今日のみことばを読むと、パウロの感謝と喜びの気持ちが滲み出てくるのが分かる。


この手紙は、パウロがローマの獄中で書いたものである。にもかかわらず、この溢れる感謝と喜び。


逆境の中にあるとき、苦難に心が折れそうなとき、このパウロからの励ましの何と心強いことか。


たった4章で構成されているピリピ人への手紙。その冒頭の1章でパウロ自身がこう述べている。


すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい(1:14)


素直でいよう、謙遜に生きよう、そう思わされる。



手紙の結びである最後の4章は、心に留めたい聖句のオンパレードだ。いくつか抜粋すると…


いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(4:4)


何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(4:6-7)


私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(4:13)



ありがとうを韓国語では、カムサハムニダというが、このカムサは感謝のことと聞いたことがある。


感謝の気持ちをひと言で表すなら、ありがとうだ。だから、ありがとうと感謝しますを同義で使うのはとても自然なことだ。


何かをいただいたときや施しを受けて自分に益があったとき、私たちはその相手に向かって感謝する。ありがとうと伝える。


さらに私たちは、受益できたのは神の働きがあったからであると確信し、神にも感謝する。いや、そもそも感謝の種類が違うかもしれない。


行為そのものではなく、神の働きは目に見えない。見えないけど神に感謝する。もっと平たく言えば、神さまありがとうと言う。喜びの気持ちを素直に神さまに伝えるのだ。


感謝も喜びも神からのもの。


この思いを持つことで、傲慢さや妬みといったネガティブな感情から解放される。


必要を満たすのは神である。

光の子ども

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あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。


エペソ人への手紙 5:8


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光と闇。


ヨハネ福音書を読むと、冒頭にこう書かれている。


光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)


すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)


光と闇が明確に対比されている。このように、ヨハネは光と闇を意識していた。キリストは光そのもの、ヨハネはまず最初にそう宣言したかったのだろう。


以降、福音書でさまざまなエピソードを語りながら、著者ヨハネの意識はいつも光と闇に向けられている。


例えば、9章にシロアムの池での癒しのエピソードがある。


エスが、生まれつき目の見えない盲人の男を癒す救いの奇跡である。ここでイエスは「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」と言われた。


ヨハネがこのエピソードを記録したのは、それが単なる癒しの奇跡ではなく、見えない人が見えるようになるという奇跡を通して、闇から光へと人生を転換することの素晴らしさを伝えたかったからだと感じる。


エスによって闇から光へと導かれた盲人の男は「主よ、私は信じます」と、信仰を告白し、見えない者から見える者へと生まれ変わった。


ヨハネ9章は、この男とその両親、そして律法学者たちとのやりとりが面白いが、ここでは触れない。


詳しく知りたい方は、私が愛聴しているメッセージステーションをどうぞ。
https://message-station.net/episode/1067/

 



私たちはたとえ肉体的には盲目でなくても、霊的に盲目である。


それは、光の中を歩まず、闇に支配されていることを意味する。


犯罪のニュースを観ると、よく、白昼堂々…と言われることがある。本来、光がある昼間に闇は存在しないはずだが、闇に支配されて悪事を働く。あまりに闇の力が強く、それに屈してしまう。


そういえば、ハリポタのプロットも、ヴォルデモートという闇の勢力との戦いである。


何も犯罪を犯す人だけが、闇に支配されているのではない。私たちは、いつもそのリスク(流行りの言葉で言うなら、ダークサイドにハマる)に晒されている。



エスは、そんな私たちの弱さをよくご存じで、私たちが光の中を歩めるようにこう言われた。


このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)


光の中を歩むとは、自分の光を輝かせることである、と。


そして、今日掲げた聖句へと繋がる。


私たちは闇から光へと転換された。ならば、光の子らしく歩みなさい、と。


パウロの勧奨。シンプルで力強い。


「真昼のように」という私の大好きな賛美があるが、その歌を口ずさみたくなった。


♪ 真昼のように輝きながら、あなたの愛を伝えたい。イエスさまのように輝き続ける。世の光にしてください〜


エスさまに出会いすべてが変わった。主よ、私は信じます。


★真昼のように
https://youtu.be/oSgf-Hqne9A

生ける水

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しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。


ヨハネ福音書 4:14


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主イエスとサマリヤの女との対話。


井戸の水にまつわる2人のやりとりは、シリアスなのにどこかユーモアがある。文字通りにしか捉えられない女のもどかしさと、真理を伝えようとするイエスの寛容さと愛とにズレがあること、そう、ボタンの掛け違いが原因である。


旅の疲れを癒そうと井戸で休んでいたイエスのところに、サマリヤの女が水をくみに来る。そこでイエスが、水を飲ませてほしいと声をかける。すると、ユダヤ人のイエスがサマリヤ人に話しかけたことに驚いた女が理由を尋ねる。


ここでいきなり掛け違いが起きている。女にとっては、もはや謎解きレベルであった。イエスはこう答えた。


「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら、あなたの方でその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」


水を飲ませてほしいと頼んできたのに、逆に水を与えてくれるって? 女の頭の中は「?」でいっぱいになり、混乱したはずだ。


すぐさま女が「生ける水をどこから手にお入れになるのですか?」と尋ねると、イエスは答えた。


「この水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」


女はイエスに言った。「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」



毎日井戸まで水をくみに来るのは、女性にとっては重労働だったに違いない。


だから、生ける水(いのちの水)が容易く手に入るなら、どんなことをしてもいいと思ったのだろう。


しかし、イエスはこの女の身上を全て知った上で、彼女を救うべく生ける水(永遠のいのち)を与えると宣言されたのだ。


ここに掛け違いがある。


この有名なシーンを読むと、私は2つのことを思い出す。


1つは自分のこと。


キリスト教を知る前、楽しければいいと奔放で刹那的に生きていた頃のこと。自由の意味を履き違えていた。


あの自由は、いわば放縦であり、心は解き放たれていなかった。いや、欲望の赴くままに生きていたという意味では、貪欲の奴隷であったとも言える。


この女のように、私も聖書に出会い、神を知り信じた。本当の生ける水を手に入れた。



もう1つは中村哲さんのこと。


中村さんは、昨年12月にアフガニスタンで銃弾に倒れ、残念ながら命を落とされた。


その中村さんは、文字通り、アフガニスタンの人たちが命の水を得るために、命を賭した。


あれほど現地の人たちに慕われ、その死を悼まれた方はいないのではないだろうか。日本での報道があまりに少ないのが残念である。


医師でありながら、医療行為ではなく、そもそも人の命を救うためには水が不可欠であることに目を留め、そのために尽力された稀有な方。


同じことはできないが、その意志を受け継ぐことはできる。


エスが実践されたように、私たちも、私たちを通して働かれる神の御業に期待する。祝福を受けた私たちが、その祝福を与えることができるように。


https://youtu.be/kqsU11mkA-A

ホサナ

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ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。


マルコ 11:9

 

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今年のイースターは4月12日である。


クリスマスが毎年決まった日であるのに対し、イースターは毎年変わる。なぜならイースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と定義されているからである。


これに当てはめれば、春分の日は3月20日で、その後に満月になるのは4月8日。で、その次の日曜日が4月12日、ということだ。


そんなウンチクはいいとして、恒例のイベント、イースターエッグハントが今年は開催できるか…これが心配である。


先週の礼拝は、賛美の曲数が減らされ、礼拝時間そのものが短縮された。教会が開催しているさまざまな予定がほぼ全てキャンセルになった。


私が世話人をしている子育てファミリーの集まりも今月は昼食会を予定していたが取り止めにした。


そして、いよいよ来週からは教会での礼拝そのものがなくなってしまった。教会員はそれぞれ家庭で礼拝を守るようにと、牧師から連絡が来た。


子どもたちの、週に一度の教会での楽しみがなくなって寂しい。この状況が長引けば、イースターも集まってお祝いできなくなる。



話が脱線してしまったが、今日取り上げたホサナの聖句は、イエスが復活する1週間前の日曜日の出来事を覚えるときに、必ず読まれる箇所である。


エスが子ロバに乗ってエルサレムに入城する。そのとき群衆はナツメヤシの枝を振って、ホサナ!と叫ぶ。


ホサナとは「いま、救ってください」の意味で、群衆はイエスが救世主メシアであることを認めた、ということである。


彼らは旧約の預言をよく知っていたからだ。


「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来る。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(ゼカリヤ9:9)


しかし、この群衆はわずか数日後、イエスに対して「殺せ」「十字架につけろ」と叫ぶのだ。


エスは期待していたメシアではない。王としての権威も強さもない。弱々しく惨めで、栄光のかけらもない。もはやホサナと叫ぶ者はいなくなった。


エスは二度来られることを彼らは知らなかった。1回目にこの世に来られたときは苦難の僕として。将来再び来られるときには栄光の王として。


1回目と2回目の狭間に、私たちは生きている。



エスエルサレムに入城されたとき、群衆はホサナと叫んで、王としてのイエスを受け入れた。


同じように、私たちも心にイエスを受け入れるときはホサナと叫ぶ。けれど、私たちは、イエスが再び来られると確信しているから、十字架につけろとは言わない。


いや、しかし、だからといって、群衆を責めることはできない。あの時代、あの場所にいたら、私だって同じようにホサナと叫んだし、十字架につけろと叫んだはずだ。


それでも、イエスが十字架につけられたのは、私たちの罪を贖うためであることを知っているから、もはや十字架につけろと言う必要はない。


罪贖われた私たちは、イエスが再び来られるときまで、ホサナどうぞ私とともにいてくださいと叫ぶのだ。


ホサナ、高らかに。

 


★ホザナを賛美しよう!
https://youtu.be/YCCHeY_sQ3s