聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

とどまる

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だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。


ヨハネの手紙 第一 4:15


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とどまる。


聖書を読んでいると、特に新訳聖書で目につく言葉。それが、とどまる。


踏みとどまるとか思いとどまるとか、その場にじっとし続けているときに使う。とどまることがないと、否定的に用いれば勢いが増していることを表す。


英語ではremainかなと思い英語の聖書を調べてみると、abideと書かれていた。聞いたことのない単語。


辞書によると、とどまるという意味には、規則や約束を忠実に守るというニュアンスが含まれるようだ。


興味深い。神が人にとどまる、人が神にとどまる、そこには忠実さが伴うのだ。



神が私にとどまり、私もまた神にとどまる。


そうなるためのたった1つの条件は、イエスが神の子であると告白すること、とある。


シンプルである。


実はユダヤ教はこの告白をしていない、つまりイエスを神の子と認めていない。すると、神は彼らに、彼らは神にとどまっていないということになってしまう。


ユダヤ人は選ばれし民なのに。創世記のアブラハム契約「あなたの子孫によって、地のすべての民は祝福を受けるようになる」とあるように、私たちはユダヤ人を介して救いにあずかる、そう学んできた。


今の時代、禁じられた新約聖書にアクセスして、イエスが神の子であることを告白するユダヤ人(Messianic Jews)が増えていると聞く。


彼らはこの告白によって、神にとどまり、神もまた彼らにとどまっているのである。この救いに導かれるユダヤ人が増やされることを願う。



エスは、とどまることを視覚的に理解させるためにブドウの木をたとえに用いた。


なぜなら、当時のイスラエルの人にとって、ブドウはいつも目にするありふれたもので、真理を教えるのに最適だったからである。


使徒ヨハネは、イエスのブドウのたとえを福音書に記している。


わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ福音書 15:4)


ブドウの枝が、ブドウの幹にとどまっているからこそ豊かな実を結ぶ。


さぁ私たちも、イエスを救い主、神の子であると告白し、神にとどまろう。そして、豊かな実を結ぼう。


余談だが、今回取り上げたヨハネの手紙は4章15節、ヨハネ福音書は15章4節。同じヨハネがとどまることを記しているのが4:15と15:4と、テレコになっていて、そんな些細なことに驚いたりしている。

 

いつまでもともに

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それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。


テサロニケ人への手紙 第一 4:17


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携挙、という言葉がある。


クリスチャンであってもこの言葉を知らない、という人は多い。それもそのはず、携挙という言葉は、聖書のどこにも載っていない。


洗礼を授かった岐阜の教会に通っていた数年間でも、一度も耳にすることがなかった。牧師の説教の中でも、聖書研究会においても触れられたことはなかった。


東京に来て今の教会に通うようになっても、説教では聞かなかった。しかし、教会員同士の会話の中で耳にすることが何度かあった。


ハッキリと分かったのは、3年前から2年間かけて学んだ聖書塾の中でのことだ。ここで「終末論」について学んだとき、携挙とその後に起きることを時系列で理解した。


携挙という言葉は聖書には載っていないが、そのことについては書かれている。その根拠となる聖書の箇所が、ここ、テサロニケ人への手紙第一の4章後半である。



携挙については、私が学んだ聖書塾の中川牧師が簡潔に解説してくれている。


Q250携挙とは何ですか。【3分でわかる聖書】
https://youtu.be/E9Tx2ji-IyM


ここで携挙について、第一テサロニケ4章を7つのステップに分解して説明している。


①イエスが天から下る
②イエスが号令をかける
③天使の声がある
④神のラッパが響く
⑤死者がよみがえる
⑥生きているものが生きたまま天に挙げられる
⑦空中でイエスに出会い、いつまでもともにいる


このように、携挙の主体は、主イエスである。


そのとき、私たちがまだ生きているかすでに死んでいるか分からないが、まずは死者、次に生きている者の順に天に挙げられる。


中川牧師も動画で触れているように、携挙については、主体者であるイエス自身がちゃんと約束している。


「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」(ヨハネ14:3)


と。


また来る、このことを再臨というが、厳密に言うと、再臨は2種類あり、携挙は空中で再臨のイエスと出会う「空中再臨」のことを示す。ちなみにもう1つは、7年間の患難時代を経てイエスが地上に降る「地上再臨」のことであるが、今回は触れない。



さて、携挙は英語でRaptureである。


Raptureを辞書で引くと「歓喜、狂喜、有頂天」とある。漢字で見ると、天にも昇る気分、有頂天なんて、携挙の意味としてしっくりくるんじゃないかと思う。


私たちにとって、今生きているこの世は、あくまで通過点であると認識する。死んだら何もかもおしまいと、ばあちゃんがよく言っていたが、そうではない。この世の生を終えても、次なる展開が用意されているのだ。


生きたままか、死んでからか、それはわからないが、いつか必ず復活の主イエスに出会い、いつまでもともにいられる。


このことに希望を見い出し、望みをかけるからこそ、今の苦しみを越えていける。


We will always be with the Lord.

怒りの行く末

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私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。


ヤコブの手紙 1:19


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もう2ヶ月になる。


怒りに震え我を忘れた、とココで綴ってから。


なかなかキツイ期間だった。


営業部案件から人事部預かりになり、最終的には産業医の面談を受けるところまで進んだ。


怒りを引き金に関係が悪化してしまった人間関係を、当事者だけで修復することができず、第三者を間に挟みようやく解決を見た。


何度も祈って答えを求めてきたが、結末はあっけなかった。



怒りが憐れみに変わる、たしか2ヶ月前にそう書いた。


しかし、そうは言っても、怒りに覆われた状態から脱するのに相応の時間はかかった。


なんとか自分をコントロールできるようになったと思っても、そのときのことを思い出すと、すぐに怒りの感情に巻き込まれてしまう。


怒るのに遅くとは、思い出したとしても、すぐに怒りに飲まれないようにすることであった。


聞くのに早くとは、怒りに飲まれそうになっても、その自分の感情に耳を傾け、心の声をつぶさに聞くことであった。


語るに遅くとは、怒りの感情を咀嚼し、自分の言葉として吐き出すのに、ゆっくり時間をかけて言語化することであった。



当事者と面談した。


怒りはもはや消え去った。語られる言葉を丁寧に聴くことができた。自分の思いを語ることもできた。


これは憐れみではないかもしれない。


2ヶ月の間、顔を見ることもなく、言葉を交わすこともなかったからだろうか、ホッとしたというのが正直なところだった。懐かしささえ感じた。


相手に変わってほしいと願ってきたが、変えられたのは自分であった。


怒るのに遅く、語るのにも遅く、聞くのには早く。


身をもって実感することができた。


感謝である。

 

いのちの在処

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人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。


マルコの福音書 8:36


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手に入れても、の部分は以前は、儲けても、と訳されていた。


簡単に言えば、たとえ大金持ちになったとしても、命を失ったらいったい何の得があるだろうか、ということになる。


お金さえあればなんでもできるという今の世の風潮ではあるが、命を失えば何の得もないことくらい、子どもでもわかる。


しかし、私たちはお金をまるで神のように崇めたり、また恐れたりしがちである。根底に虚栄や貪欲が潜んでいるからである。


ルカの福音書で、イエスはこう言う。


「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです」
(ルカ 12:15)



 
命は財産にない、その通りだ。命をお金で買うことはできない。


エスは、続けてこんなたとえを話した。


「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない』


そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」』


しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか』


自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」



貪欲とは、すべて我がものとすることである。


この金持ちの男の言葉を追いかけてみると「私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産、私のたましい」と、ことごとく「私の」と、我がものとしている。


これが貪欲である。


こうして今よりもっと多くの富を手に入れ、たとえ世界を手に入れたとしても、いのちを失ってしまえば、それでおしまいだ。


ならば、富は地上ではなく、天に積んだ方がいいのではないか。


聖書にはこんなことも書いてある。


「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。自分のために、天に宝を蓄えなさい」


この行ないによって、結果的に私たちはいのちを得る。これはパラドクスかもしれない。


地上に富を積むことでいのちを失うのではなく、天に富を積むことでいのちを得る、ということだ。


そう、生き方が規定される。

 

 

忍耐、励まし、そして希望

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かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。


ローマ人への手紙 15:4


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かつて書かれたもの。


それは、聖書のことである。厳密に言うと、使途パウロが活躍していた時代には、まだ新約聖書はないから(この手紙がゆくゆくは新約になるのだが…)、ここで言う聖書とは、旧約聖書のことである。


それは私たちを教えるために書かれた。


当時の聖書は、死海写本で分かるように、大きな巻物になっていて、それをユダヤ人が集まる会堂(シナゴーグ)で声に出して読み上げていたらしい。


今なら、教室で先生が前に立って大きな声で本を読んでいる光景が、絵的には近いかもしれない。


このように聖書は、教え諭すために書かれたものであることは間違いない。



もう少し付け足そう。


この手紙の著者であるパウロが、弟子のテモテに宛てた手紙に、聖書の定義が書かれている。


聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
(第二テモテ 3:16)


聖書は人が書き留めたものであるが、聖書記者はすべて神の霊感に満たされて記したものであること。そして書かれた内容は、教え、戒め、矯正、正義の訓練に有益である、と。


簡単に言うと、正しい道に進むために聖書は有益だ、ということである。


私たちは罪の性質を負って生まれてきたから、簡単に道を逸れる。悪しき道にすぐに染まる。


そのとき180度方向転換させてくれるのが聖書だ。この方向転換のことを悔い改めと言う。


けれど悲しいかな、一度のみならず、何度もこうした経験を重ねる。失敗しては悔い改め、を繰り返す。



神を陶器師、私たちを器に例えることがある。ロクロの上をくるくるまわっている私たちは、よじれたりヒビ割れたり不格好なものである。


それを神さまが諦めることなく、ときに励まし、ときに慰め、声をかけながら忍耐強くこねてくださる。そうして私たちは形造られていく。


そう思うと、今日のみことばにある「聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続ける」ことが真実であると同時に、神さまもまた、忍耐と励ましと希望を持って私たち人間を導いてくださっていることに気付く。


どちらも真なり。


神さまが、尽きることなく忍耐し励まし続けてくださるから、私たちは希望を持ち続けることができる。


「土の器」を賛美したくなる。
https://youtu.be/THYEz10LphM

 

 

トコにて

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私に御顔を向け私を憐れんでください。
私はひとり苦しんでいます。
私の心の苦しみが大きくなりました。
どうかこの苦悩から私を引き出してください。
私の悩みと労苦を見て
私のすべての罪を赦してください。


詩篇 25:16-18


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体調を崩した。


熱が出て、頭痛がして、倦怠感もあって…そう書くと、それってもしかして? と思うだろう。私もそう思った。


コロナ相談窓口に電話して、状況を伝えると、吐き気や空咳、肺が苦しいといった症状がないようなので、すぐに検査を受けるのではなく自宅で安静にしていてください、とのことであった。


そうか、ならばおとなしくしているかと、会社には在宅勤務申請を出し、ほぼ1週間うちにこもっていた。


おかげで体調は回復した。



心もカラダも弱ったときは、詩篇を読むに限る。


詩篇には等身大の人間の喜怒哀楽が綴られている。神への感謝はもちろんだが、反対に哀願というか嘆願というか懇願というか、そんな思いもストレートにぶつけている。


そういうところに共感する。


カラダがだるいので、文字を追いかけるのは辛く、もっぱら聴くドラマ聖書で詩篇の世界に浸かった。


いにしえのイスラエルの民も、文字ではなく耳で聖書に親しみ誦じていたわけだから、そう思うと少し嬉しい気持ちにもなる。


今回取り上げた詩篇25篇は、アルファベット詩篇と言われている。どういうことかというと、文頭がヘブル語のアルファベット順にアレフ、ベス、ギメル…と、きれいに並んでいるのである。


技法といえばそれまでだが、そうではなく、耳から覚えるのに日本にいろは歌があるように、アルファベット順にすると覚えやすいからだ。もちろん、日本語にするとそんな工夫もまったく意味がないから、読んでも聴いても、別に覚えやすくはないのだが。



さて、この25篇は、内容的には1つのテーマを扱っている。それは、「苦難の中での救いを求める祈り」である。


今回のようにカラダが弱っているときや、苦しみのなかにあるとき、聖書を読めなくなるのと同じように、祈ることが難しくなる。


神さまの方に顔を向けることが難しくなる。


祈れないとき、詩篇を読む。そこには、祈りの言葉がたくさん収められている。


25篇を読む(聴く)とき、この祈りを順に唱え、神さまに心を向けることができる。


すっと倦怠感が抜けるわけではないが、心が安堵する。


救いを求める祈りが私たちに与えられていること、幸いである。

 

ホンモノの平安

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わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。


ヨハネ福音書 14:27


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前回は「喜び」を扱った。今回は「平安」を扱う。


この2つはともに、ガラテヤ5章に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあるように、クリスチャンが結ぶべき果実である。


平安の「平」は、平和、平衡、平気と、曲がってなくて、真っ直ぐでニュートラルなイメージがある。


一方「安」には、安全、安静、安泰と、柔らかで優しい、温かなイメージがある。


つまり、平安って言葉には、何者にも邪魔されないピンと張り詰めた清廉さと、何者をも恐れず覆ってしまう包容力とが共存している。


そう思うと、400年続いた平安時代というのは、さすが平安を願って京都に都を移して造っただけのことはあっていいネーミングだ。実際、世の人が平安だったかどうかはわからないが…。



平安を自分で作り出そうとすると、たいてい失敗する。


なぜなら、平安が目的化してしまい、平安のために何かをムリに抑え込んだりするからだ。


平安ってそういうものじゃない。


では、誰かが与えてくれるものなのか?


それはあるだろうな。大切な人に優しく振る舞われたり、温かい言葉をかけられたりすると、平安に満たされる。


平安の究極のイメージは、母の胎内にいる胎児が感じるであろう感覚。もちろん覚えてはいないが、胎児は何者にも邪魔されず、何者をも恐れず包み込まれて、絶対的な平安を得ているだろう。


この世に生まれてしまうと、胎内で得ていた平安はもう得られない。


しかし、この聖句を読めば、キリストご自身がとっておきの平安を与えてくれる、とある。



キリストが与える平安。


それは絶対的な信頼を神に寄せることからくる平安だろう。


胎内で得られる平安は、広さも深さも最高のものであるが、最大のネックは10ヶ月限定であることだ。さらに、自分では意識できない、覚えていない。


幸いなことに神を知ることができた。


とはいえ、不安や心配が消えるわけではない。怒りや悲しみに襲われることもよくある。苦しくて泣きたくなるときもある。


神を知ったから、クリスチャンになったからといって、そうした感情から解放されるわけではない。いや、むしろ罪の意識があるから、よりクリアに辛くなってしまう。


しかし、主にある平安は、最高レベルのもので、かつ、いつまでも消えることがないものである。


この保証を所持しているかどうかで生き方は変わる。


永遠になくならない、絶対的な平安の証書を持っているから、たとえダークサイドに落っこちても、騒がない。恐れない。