聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

ホンモノの平安

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わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。


ヨハネ福音書 14:27


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前回は「喜び」を扱った。今回は「平安」を扱う。


この2つはともに、ガラテヤ5章に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあるように、クリスチャンが結ぶべき果実である。


平安の「平」は、平和、平衡、平気と、曲がってなくて、真っ直ぐでニュートラルなイメージがある。


一方「安」には、安全、安静、安泰と、柔らかで優しい、温かなイメージがある。


つまり、平安って言葉には、何者にも邪魔されないピンと張り詰めた清廉さと、何者をも恐れず覆ってしまう包容力とが共存している。


そう思うと、400年続いた平安時代というのは、さすが平安を願って京都に都を移して造っただけのことはあっていいネーミングだ。実際、世の人が平安だったかどうかはわからないが…。



平安を自分で作り出そうとすると、たいてい失敗する。


なぜなら、平安が目的化してしまい、平安のために何かをムリに抑え込んだりするからだ。


平安ってそういうものじゃない。


では、誰かが与えてくれるものなのか?


それはあるだろうな。大切な人に優しく振る舞われたり、温かい言葉をかけられたりすると、平安に満たされる。


平安の究極のイメージは、母の胎内にいる胎児が感じるであろう感覚。もちろん覚えてはいないが、胎児は何者にも邪魔されず、何者をも恐れず包み込まれて、絶対的な平安を得ているだろう。


この世に生まれてしまうと、胎内で得ていた平安はもう得られない。


しかし、この聖句を読めば、キリストご自身がとっておきの平安を与えてくれる、とある。



キリストが与える平安。


それは絶対的な信頼を神に寄せることからくる平安だろう。


胎内で得られる平安は、広さも深さも最高のものであるが、最大のネックは10ヶ月限定であることだ。さらに、自分では意識できない、覚えていない。


幸いなことに神を知ることができた。


とはいえ、不安や心配が消えるわけではない。怒りや悲しみに襲われることもよくある。苦しくて泣きたくなるときもある。


神を知ったから、クリスチャンになったからといって、そうした感情から解放されるわけではない。いや、むしろ罪の意識があるから、よりクリアに辛くなってしまう。


しかし、主にある平安は、最高レベルのもので、かつ、いつまでも消えることがないものである。


この保証を所持しているかどうかで生き方は変わる。


永遠になくならない、絶対的な平安の証書を持っているから、たとえダークサイドに落っこちても、騒がない。恐れない。