聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

喜びのもと

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何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。


ピリピ人への手紙 2:3-4

 

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ピリピ人への手紙は、わずか4章の短い書簡である。


「聴くドラマ聖書」でじっくり聴いても、15分もあれば聴き終えてしまう。


では、それほど重要ではないかと言われたら、そんなはずがなく、むしろ短いだけに、エッセンスがギュッと詰まっている。


ピリピ書のテーマはひと言で「喜び」である。


いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


4章4節の、この有名な聖句からもわかる。自然に喜ぶのではなく、喜びを命じており、しかも喜び続けることを求めている。


ふと思う。喜んでいる人に喜べ、なんて言わない。とても喜べない状況にあるからこそ、喜びなさい、さぁ喜ぼうではないか!と励ましているのだろうな、と。


励ましているパウロ自身、このときローマの牢獄にいるのだ。牢に繋がれていながら、どうして喜べと命じられようか。


そうか、ピリピの人を励ましながら、実は自らをも励ましていたのかもしれない。



喜べない状況。


ここでは、教会の内部にある人間関係のことを指している。組織の内部で関係性をこじらせている状況、これは何も教会に限らないだろう。


会社や学校にもあるだろうし、家庭にだってあるだろう。


だから、今日の聖句は、二千年前とある教会にこととして、遠くから覗き込むのではなく、むしろ自分に引き寄せて、自分ゴトとして捉えた方がいい。


この聖句の前半に、喜べない状況に陥った、つまり人間関係がこじれてしまった原因が2つ記されている。


それは、自己中心(エゴ、セルフィッシュ)と虚栄(プライド、バニティ)である。


話は逸れるが、女性の化粧ポーチのことをバニティバッグと言うのも、バニティが虚栄という意味だと知ると、意味深な感じがする。


さて、この厄介な2つの性質は、私たちが生まれながらにして持っている罪の性質の代表選手みたいなものである。


しかも、この2つは互いに密接に絡んでおり、何がエゴからで、何がプライドからなのか、自分でもよくわからなくなる。



ありがたいなと思うのは、そのすぐ後で、厄介な2つの性質とどう向き合えばいいのか書かれていること。


まずは、へりくだること。謙遜、である。まさにエゴの対極、プライドの正反対にある姿勢である。


謙遜ってどういうことかと言うと、他人を自分より優れた者と思うこと、とある。


これがどれほど困難であるか。


好きな人のことなら、そう思えるだろう。尊敬する先輩はもろん、若くても自分より優れてると思える人はいる。


しかし、苦手な人に対してはどうか。また、自分を憎む人に対してはどうか。そうなると、途端に難しくなる。


そして、相手に関心を持つようにとも勧めている。これも利己的な状態ではとてもムリなこと。


へりくだって相手を善き者として思いやる。


これを完璧に実践したのはただイエスキリストおひとり。私たちは、それに遠く及ばない者であるが、パウロがこのようにどうしたらいいのか示してくれるのだから、少しでも近付きたいと願う。


キリストの愛の実践こそ、喜びに直結するものだから。苦々しい表情を捨て、喜びに満たされよう。

 

 

天高き方

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天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。


イザヤ書55:9


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コロナウイルスが蔓延して半年以上になる。日々の感染者数を確認するのが習慣になり、マスクをつけて生活することが当たり前になった。


電車に乗ると、ほぼ全員マスク姿で、スマホを覗いている光景は何やら異様である。


ひとたび誰かがクシャミをしたり咳をしたりすると、やにわにスマホから顔を上げてキョロキョロするから、そんな光景も滑稽である。


そんな人間観察をしている私とて同類だから、笑えない。


このように、俯き加減で過ごすことが多いと、前を向くことが少なくなる。ましてや、上を向くなんて滅多になくなる。


仕事で上手くいかないことがあったり、ゴタゴタに巻き込まれたりすると、前屈みになり、どんどん猫背になり、前も上も向けなくなってしまう。


そんなときはどうしたらいい?



満点の星空を見たことがあるだろうか。


故郷である岐阜県の西の端に藤橋村という寂れた集落がある。そこは「星のふる里」と呼ばれるだけあって、とてもキレイな星空が見られる。


https://nipponnmottosirou.com/archives/2418


まだ東京に来る前、妻と深夜のドライブで何度か行ったことがある。当時の自分のドキドキ感と一緒に、その星空のことをよく覚えている。


その頃、教会に通い始めており、その圧倒的な美しさを前に神の存在を感じていた。


ちょっと気持ちが塞ぐことがあり、そのタイミングで今日のみことばが示された。そして、このみことばを何度か繰り返し口にしていると、藤橋村の星空が思い出されたのだ。


まるで連想ゲームのように。



預言者イザヤが、神の代弁者として神のことばや神の道、そして想いを伝えてくれる。


私たちは神の御手の中で、その測り知ることのできない存在の中で生かされている。


広い世界で自分の存在など、ほんのちっぽけなものに過ぎない。


しかし、神は造られた星の1つ1つを覚えているように、私たち1人1人を知っている。陶器師が作り上げた作品を愛おしむように、創り主である神は私たち1人1人を愛し慈しんでおられる。


圧倒的な自然の存在を前に、神の偉大さと愛に触れる。もう道を踏み外すことはない。もう絶望はしない。


「天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい」
詩篇 103:11)


ダビデもこのように謳ったではないか。


さぁ、All the Heavensを賛美しよう。こんな賛美コンサート、一緒に歌ってみたいものだ。
https://youtu.be/KoQj7Q2UiJE


 

30年の旅路

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心を尽くして主に依り頼め。
自分の悟りに頼るな。
あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。
主があなたの進む道をまっすぐにされる。


箴言 3:5-6


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リビングの壁に貼ってある写真にふと目が留まった。


それは高校の卒業式のスナップだった。もう何年もそこにあったのに、じっくり見るなんて久しくなかった。


すっかり色褪せたその写真には、いつもつるんでいた仲間と一緒に、ベロを出して笑っている30年前の自分がいた。自分の悟りに頼っていた若かりし頃。


柔道とバンドと恋愛に夢中だったあのときから30年か…。


この聖句の「悟り」は、別の訳では「知識」とある。高校3年生の知識なんて、一体どれほどのものだろう。それでも世界は自分中心に回っていると勘違いしていた実に愚かな少年であった。


記憶の旅を、それから少し楽しむことにした。


30年前から、20年前そして10年前と、10年単位で区切り、自分はどこで何をしていたのかと、記憶を辿る旅をした。



20年前。


新卒で入社した会社を退職し、田舎に逃げ帰り、アルバイトで食いつないでいた。


キリスト教に出会い、神を知り、キリストを知り、聖書を読み、教会に通っていた。


バックパッカータスマニアを旅したり、カーフェリーに乗って北海道を旅したりした。


駅前留学して英語を勉強した。そこで、妻と出会った。西暦2000年のミレニアムを一緒に祝い、翌年、洗礼を受け、そして結婚した。


アルバイトから正社員になって、責任ある立場で働くようになった。


神を知り、神によって私の道は作られた。



10年前。


子どもを授かり、家族で東京にいた。ひとり娘が保育園に通い始めた頃、転職をした。


同じ街の教会に導かれ、同年代のクリスチャンに出会った。音楽の奉仕の場が与えられ、定期的にドラムを叩いて賛美した。


転職した会社は、外資の傘下に入ったり、その後国内の上場企業に買い取られたり、紆余曲折を経て単独の事業会社として存続している。


契約社員として3年間我慢した。課せられた営業ノルマを達成し、正社員になった。仕事は自分でも信じられないくらい性に合っていて、普通に営業するだけで結果を出すことができた。正社員からリーダーに、それから課長へと昇進した。


そして今に至る。


妻と娘は、それぞれ一番いいタイミングで洗礼を受け、晴れてクリスチャンホームを築けた。


ここには書き切れないたくさんの恵みを受けた。神が示された道は真っ直ぐで、神を信じすべてを委ねて歩くことができた。


写真と聖句のおかげで、過ぎ去りし遠い日々を思い起こし、私の人生に神が介入されたことを覚え、神の恵みの中を生かされてきたことを知ることができた。


感謝しかない。


「主を仰ぎ見て」を賛美しよう!
https://youtu.be/Viar5edeGzU
 

罪との関わり

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もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。


創世記 4:7


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怒りに震える出来事があったと、前回述べた。


それにしても、厄介だった。怒ってもいいが、怒ったままでいてはならないなんて、これは試練であった。


怒りは抱え続けていると罪に支配されるが、持ち越すことなく、なんとかこの1週間を過ごした。


相手に対する怒りは憐れみに、憐れみは赦しに変えられると、示されたこのプロセスのようにはなかなか行かない。


しかし、今回の出来事を通して、自らが神の怒りに触れ、憐れまれ赦された者であることに気付くことができた。これは、大きな収穫、いや、それこそ試練を乗り越えるために与えられた経験であった。



さて、創世記4章は、聖書に記された最初の兄弟、最初の礼拝、最初の殺人の記録である。


兄カインは地を耕す者として収穫物を持って、弟アベルは牧畜を営む者として初子の中から最上の羊を抱えて、それぞれ神にささげた。


ところが神は、弟アベルのささげ物にだけ目を留められた。


神は肉を好み野菜が苦手とか、そんなことではもちろんなく、神はささげる者の心を見られたのであろう、その行為ではなく。


神に認められなかった兄カインは、あろうことか神に対して怒る。なぜなのか! なぜ弟のささげものにだけ目を留めるのか! と。


そこで神がカインに告げたのが、今日の聖句である。


ここではじめて、罪という言葉が使われる。正しいこと、良いこととの比較として、しかも擬人的に使われる。罪が恋い慕う、と。


結局、カインは罪の虜になり、神への怒りの矛先をアベルに向け、殺人を犯してしまう。



創世記3章には、アダムとエバの、いわゆる禁断の果実の話がある。罪の性質はカインに始まったのではなく、アダムとエバから繋がっていることが、文脈から読み取れる。


こうして罪の性質は人類すべてに受け継がれ、あなたにも私にもしっかり組み込まれている。


罪、つまりサタンは、今も私たちを恋い慕って、陥れるチャンスを虎視眈々と狙っている。


怒りに我を忘れ、怒りを抱えたままでいると、罪の性質によって、簡単に罪の虜になる。


では、どうすればよいか?


私たちには二千年前、イエスキリストが与えられた。キリストは私たちの罪を贖う。支払うべき罪の代償を、すでに完済している。


このことを信じ受け入れることだ。


私たちは罪の支配下に置かれるのではない。キリストによって罪を支配するのである。私たちは、信仰と恵みによって、固く立つ存在である。


…神はそんなカインさえ憐まれた。

怒り、そして憐れみ

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怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。


エペソ 4:26-27


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久しぶりに怒りに震えた。


怒ることはよくある。私はふだん温和に振る舞っているが、もともとは血の気の多い人間だと自覚している。


信仰を持つ前、特に10代後半から20代の頃はよくキレていた。絶えず何かに不満で、不満そうにしていることがカッコいいと勘違いしていた。


信仰を持ってからは、怒りをなるべくコントロールするように心掛けてきたし、たとえ怒ってもすぐに気持ちを切り替えるように努めてきた。


しかし今回はムリだった。怒りのマグマが自分の奥底からいっき湧き上がり、それを抑えることができなかった。大声で怒鳴りたくなったが、それはなんとか堪えた。しかし、堪えたせいか、身体が震えて止まらなかった。


どうしたらいいか分からず、祈っても聖書を開いてもダメだった。



今日の聖句は、そんな私に与えられた。


怒ることは罪ではない、しかし、怒りを持ち越したり放置したりすることは罪だ。


なぜなら、怒ったままでいると、自分は間違っていない、自分が正しいと思う気持ちが増幅し、そこに大きな隙ができるからだ。


怒りを抱え続けていると、心に悪がはびこり、怒りが憎しみになり、自分を見失う。罪が戸口で待ち構えている。サタンが手招きしている。


怒りに我を忘れそうになったが、罪に絡め取られないために、なるべく早く怒りを自覚することを心掛けた。


自分が怒っている、しかも制御できないくらい相当に怒っている、そんな自分を俯瞰し、客観的に認識することにした。


これでいくらか冷静になれる。



詩篇を読むと、4篇にこう書いてある。


あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。(詩篇‬ ‭4:4‬)


怒りを自覚し、サタンの手招きにも応答せず、罪を犯さないで済んだとしよう。


怒りの感情は日にち薬のように、徐々に薄れてはいく。しかし、それでおしまいにはならない。


解決したと思って油断していると、実は心の奥底に潜んでいて、ただ見えなくしていただけだったりする。


そこで祈る。


祈ったらこうなった。


怒りは憐れみに、憐れみは赦しに。このプロセスが示された。自分の内側に向かっていたベクトルが、外側に向いた。外に向くときに、怒りは憐れみに変えられた。


そうだった。


神の怒りを受け続けたわたし自身が、神に憐れまれていたのだった。憐れまれ赦され、だから今の自分が存在するのだった。
 

応答される神

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私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。


詩篇138:3


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神の愛は無条件に注がれる。


たとえ私たちが意識していなくても注がれるし、仮に私たちが拒んだとしても、それでもなお注がれている。


創世記にあるノアの物語を読んでいると、神が私たちと交わした約束が記されている。


「わたしとあなたがたとの間に、また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に、代々にわたり永遠にわたしが与えるその契約のしるしは、これである。


わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである」


うっかりすると読み過ごしてしまうが、この約束はノアとその家族にだけ有効なのではなく、私たち全人類を含むすべての生き物が対象となっている。


これが神からの無条件の恵み、尽きることのない愛のしるし、だ。



力を与えるとか、強くされるとか聞くと、なにやら勇ましい感じがする。


英語を見てみると、emboldenという単語が使われている。この単語を、流行りの語源で理解する式に分解すると、接頭辞em(en)+形容詞bold+接尾辞en、となる。


boldには「大胆な、勇敢な、恐れ知らずの」といった意味がある。接頭辞のenには「make 〜させる、作用する」の意味が、接尾辞のenには「〜にする、〜になる」となら、全体で動詞になる、てな仕組みだ。


ふぅ、調べると奥が深い。


なぜここまでして1つの単語にこだわるのかというと、日本語では分かりにくい語のニュアンスやそこに込められた真意が理解できるからだ。もちろんヘブル語やラテン語の方がいいのだろうが、そこまでは手が出ない。



神が私たちを勇気づけたり、励ましたり、大胆にさせたりするのは、決して遠慮がちではない。


そこには、makeの「強い圧をかける」イメージが内包されている。


私たちが、神さま!と呼びかけると、神は間違いなくその呼びかけに応答し、そして力を与えてくれるのだ。


心に疲れを感じるとき、人間関係に嫌気が差すとき、怒りの感情に支配されそうになるとか、神さま!と呼びかけよう。


私たちの神さまは、必ず応えてくれる。お賽銭もお布施もいらない。


トランシーバーで「神さま、神さまどうぞ」と呼びかけると、「はい、こちら神です、どうぞ」とノイズの中から聴こえてくる。


そんなイメージを絶やさずに。


神からの無条件の恵みに、私たちは信仰で応答しよう。

平和の神

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あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。


ピリピ人への手紙 4:9


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この世界の片隅に」をTVで観た。


劇場では2016年に公開、TVでは昨年も放映されたようだが、前情報は全くなく、たまたまつけたらやっていたから、何の気無しに観はじめた。


すごい作品だった。どんどん引きずり込まれていった。戦時下の市井の人々、しかも舞台の呉は当時、日本海軍の拠点でもあり、ひっきりなしに空襲がある中で、日常の暮らしと感情の揺らぎが細やかに描かれていた。


同じ戦争映画でも「火垂るの墓」とは違った。もっと繊細で、柔らかで、それでいて平和の尊さをしっかりと考えさせてくれた。



そう、毎年この時期になると、平和を考えさせる。こと今年は戦後75年ということもあり、しかもStay Homeな夏だったこともあり、うちに篭ってTVを観たり本を読んで、平和について思いを馳せて過ごすことが多かった。


平和といえば、聖書ではイエスがこのように述べている。


平和を作り出す人は幸いです、と。


平和は作り出すものであると、つまり、主体的かつ能動的なものであると、イエスは集まった数千人の群衆に語ったのである。


このように、聖書における平和は、ただ戦争がない状態を指すのではなく、積極的に他者との関係において、互いを理解し尊重し、労り励まし慰め合い生きることを求める。


なぜなら、私たちを創られた神は、平和の神だからである。



今日の聖句では、平和の神が私たちと一緒にいてくださる、とある。


ただ、直前には条件があって、見たことや聞いたこと、学んだことや受けたことを行ないなさい、とある。


やはり、能動的かつ積極的でなければならないのだ。


見て終わり、聞いて終わり、学んで終わり、受けて終わり、ではなく、それらを行動に移さねば、平和を作り出すことはできない。


私たちは罪の性質を内在している存在だから、自然なままでいると平和から遠ざかり、心に平安がなく、他者と争うようになる。


自然体が悪いと言っているのではなく、罪と悪に躓かないように、よくよく注意していないといけない、ということである。


そのために、他の箇所にはこうも書いてある。


いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。


喜び、祈り、感謝する。


平和の神よ、どうか私たちと一緒にいてください。平和を作り出すものとして用いてください。