聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

種を蒔く

f:id:songchi0326:20220706140916j:image

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。
 
詩篇 126:5
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
有名な聖句なのだが、これをどう適用するか。
 
種を蒔くときに涙を流すとは? そこにいったいどんな感情が潜んでいるのだろうか。
 
種を蒔くといえば、ミレーの「種をまく人」を思い出す。あの絵で種を蒔いている男は泣いていたか?いや泣いてはいないだろう。では笑っていたか?いや笑ってもいないだろう。
 
目深に被った帽子のせいで表情が読み取れない。急な斜面を下りながら手際よく種を蒔いていく場面からは、感情はむしろ感じられなくて、シンプルに仕事に没頭している様子、いわゆるタスク達成を目的にしているように思える。
 
ますます分からなくなる。涙とともに種を蒔くとはどういうことか?
 
聖書で分からないことは、聖書に答えを求めるという基本原則がある。そうしてみたいと思う。
 

 
聖書で種蒔きというと、2つ思い浮かぶ。
 
1つはイエスの「種を蒔く人のたとえ」である。
 
種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。(マタイ13:3-8)
 
ここでイエスは「御国のことば」を種にたとえた。
 
みことばという種が、道端、岩地、茨、そして良い地の4つの土地に蒔かれるたとえだが、これはクリスチャンじゃなくても、最初の3つがダメで最後の良い地がいいのだろうとわかる。
 
この4つの土地は私たちを表していて、私たちが道端や岩地や茨ではなく、良い地としてみことばを受け、そして実を結ぶことが期待されている、という話だ。
 
エスはこう結んでいる。
 
良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。(ルカ8:15)
 
ここでは種を蒔く人は、神である。神は、私たちがたとえ良い地でなくても構うことなく種を蒔き、収穫を心待ちにしてくださる方である。
 

 
続いて旧約聖書を見てみる。
 
朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。(伝道者の書11:6)
 
ここでの種を蒔く人は、私たちである。
 
ここでも種は言葉を指していると思う。私たちの口を通して発せられる言葉がうまくいくかどうかわからず、ときには不安や恐怖で涙が出たとしても、信じて蒔く。
 
そうすれば神は善きに計らってくださり、やがて私たちは喜んでその実を収穫することができる。
 
だから信じて蒔き続けることが大切だ。
 
種を蒔く人を、神の視点で眺めることと、私たち人間の視点で眺めることの両面を見てみた。神が直接関わるのか、私たちを通して間接的に関わるのかの違いはあるが、いずれも神が関わることに変わりはない。
 
この恵みを覚えて感謝したいなと思う。