同じように、あなたがたもキリストイエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
ローマ人への手紙 6:11
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県をまたぐ移動が可能になり、ようやく営業活動再開となった。
すでに東北や九州のメンバーは、5月末の緊急事態宣言解除から徐々に営業を再開していた。しかし、東京のメンバーは在宅勤務が続き、我慢の期間だった。
週に一度か二度出社する以外は、自宅でテレワーク。家族が在宅であるのが幸いで、それがためにペースを崩すことなく仕事ができた。
今日は何人に電話をする、資料を作成する、何時からWeb会議がある、そのように、予めその日の仕事内容を家族に伝える。自分にとって、それが在宅勤務でいいパフォーマンスを発揮するコツだった。
独りだったら、恐らくそうはならなかっただろう。
自制心が低下し、やることに手が付かず、無為に過ごしてしまっただろう。
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自分を制することができない状態、それは、罪の中にいる状態であると言える。
自制心を失っているときの自分は、何らかの奴隷になっている。
たとえば、怒りに我を忘れているとき、不安や悩みに胸が苦しくなるとき、そして欲望にまみれているとき、そのようなとき、自分を律することができず、コントロール不能に陥る。
これが罪である。
私はクリスチャンでありながら、いとも簡単に罪に陥る者だ。そして、後悔しては嘆くのだ。また私は愚かなことをしてしまった、と。
罪に死んだと分かっていても、罪の性質を免れるものではない。それが苦しい。
けれど、そう、これこそクリスチャンだからなのだが、罪の中に留まり続けることがないのは救いである。
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今回の聖句の直前で、パウロはこう言っている。
罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました、と。
罪を赦され、神に生きることを選び取ってもなお、罪の性質を免れない私は、このパウロの言葉に涙が出る。
罪を赦されるためには、まず自分が罪深いことを認めねばならない。これを認罪と言うが、認罪があってこそ、赦しがある。
だから、罪が多いほど恵みが多いのなら、罪に留まっていた方がいいじゃないか、と考えるのは間違っている。
パウロはさらに、罪に死に神と生きるものであることも認めなさいと言う。そうなのだ、罪深さを認め、そして罪赦されたことを認め、罪に対して死んだことを認めるのだ。
英語を見てみると、認めることをrecognizeでもconsiderでもなく、countを使っていた。つまり、認めるとは指折り数えることである。
罪に死に、神に生きる。神から一方的に注がれた恵みに対して、私たちは信仰で応答しよう。
もはや罪の奴隷にはならない。
赦された喜びを感謝しつつ、指折り数えよう。