それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
第一コリント 2:5
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神の知恵。
自ら開拓したコリントの教会に関する良くない知らせを聞いた使徒パウロは、教会に属する人々に手紙を書いた。紀元55年頃のことである。
最初はバッチリピントが合っていたのに、徐々にそれがボケていったり、逸れてしまったりする。同じところを長時間眺めているとそうなるものだ。
同じように、コリントの教会もパウロの伝道に触れた当初は信仰に燃えていたが、時が経つにつれ薄れてしまった。さらに、分裂や不道徳など、深刻な問題が露呈していた。
コリント教会のこの状況は、二千年前のギリシアでのことだからと言って、今と切り離してしまうのは間違いである。むしろ、現代に引き寄せて適用してこそ意味がある。
コリント人への手紙 第一のテーマは、キリストにある一致であり、今回の2章では、神の霊、神の知恵について記されている。
冒頭の数節を引用してみる。
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1. 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
2. なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
3. あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
4. そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
5. それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
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あのパウロでも、伝道するときに、自分の知恵や言葉を使おうとしなかった。自らの力や言葉で説得しようとはしなかった。
おまけに、ひどく弱り、恐れ、震えながら、とある。すでに他の都市で迫害を受けていたパウロは、コリントでも同様のことがあるのてはないかと恐怖を覚えたのである。
ギリシア人は人の知恵を重んじる。それに対して、人の知恵で語っても虚しい。コリントの前に訪問したアテネでは、神の知恵で語ってもパウロは嘲笑われたのだ。
ゆえに、コリントでは徹底的に神の知恵、神の力に徹した。
神の知恵とは何だ。それは、十字架につけられたイエス・キリストそのものである。キリストの死、埋葬、復活、昇天、そして再臨。キリストに関わる全てが神の知恵である。
神の知恵で語るとは、キリストを語ることであり、神の知恵を知るとは、キリストを知ることである。そして、神の知恵を手に入れるとは、キリストを信じ受け入れることである。
たとえピントがズレてしまっても、キリストにフォーカスすれば正すことができる。これは自分の生活や信仰においてとても大切な原則である。
また、仕事や家庭において他者と交わるときも、キリストを見て、神の知恵で接するならば、神の御霊が私たちを適切にガイドしてくれるのだ。
Let us fix our eyes on Jesus‼︎
https://youtu.be/h6LibmzH09A