聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

恐れと平安

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人を恐れると罠にかかる。
しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。


箴言 29:25


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久しぶりに箴言を取り上げた。
 
箴言は、いわゆる教えであり、諭しであるから、生きる知恵集みたいなものだ。どこを取っても心にグッと突き刺さる。
 
この29章を読むだけでも
 
愚かな者は感情のすべてをぶちまけ、知恵のある人はそれを内に収める。(11節)


人の高ぶりはその人を低くし、へりくだった人は誉れをつかむ。(23節)


と深い内省を促してくれる。
 

 
さて、恐れはどこから来るのか?
 
恐れの根っこには、不安や心配がある。では、不安や心配はどこから来るのか?
 
時系列で言うと、過去や現在のことではきっとない。未来に対して、それが明らかでないから、どうなるか分からないという漠然としたモヤモヤを抱えて、不安や心配になるのだと思う。
 
分からないというのは、不安なものだ。
 
自分のことさえ分からないことが多くて不安になり、恐れを持つことがあるというのに、人に対して恐れるなんて、愚かだと思わないか。
 
いや、人に対して恐れること自体、もしかしたら傲慢なのかもしれない。
 

 
人のことをよく分かろうとする行為は自然なことで、それが親しい人や愛する人であれば尚更である。
 
しかし、分かろうとすることと、分かることの間には大きな隔たりがある。分かろうとすることには愛や誠実さが伴うが、分かっていると思うことには傲慢さが潜む。
 
私たちが、人を分かることで恐れを払拭したい、と思うのは、だから愚かなことだ。それは罠だと、作者は警告している。
 
罠、それはサタンの誘惑に他ならない。
 
では、分からないことが引き起こす恐れ、の対極にあるのは何か?
 
それは、分かってもらえていることで得られる平安である。


私を分かってくれているのは、神である。
 
分からない恐れで身を滅ぼすより、分かってもらえている安心感を得る方が健全でないか。
 
信頼すべきは人ではなく神だ。