聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

希望の預言

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わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
 
エレミヤ書 29:11
 
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バビロン捕囚。
 
世界史を習ったことがある人なら誰もが知っている歴史。これを習った高校生の頃は、キリスト教も神も信仰も、何も知らなかったし興味もなかった。
 
それも仕方ない。10代の頃は目に入るものしか興味がなかった。とにかく今、今がよければ…実に刹那的な生き方だった。
 
正しい知識として、山川の世界史小辞典を引用しておこう。
 
ユダ王国新バビロニアネブカドネザル2世が攻め,前597年と前587ないし前586年の2度にわたり住民の多くをバビロニア強制移住させた。2度目にはイェルサレムは破壊されユダ王国は滅亡した。前538年にアケメネス朝のキュロス2世に解放され帰還した人々は,イェルサレムに神殿を再建しユダヤ教を成立させた。しかしバビロニアに残留した人も少なくなく,のちにパレスチナ・タルムードとは別にバビロニア・タルムードが編集される遠因となった。
 
ふむふむ、大学入試に必要な知識として、最低限のことは覚えている。
 
世界史は、年代という縦の流れと、地域の関係性という横の流れを、つねに意識しながら捉えないといけない。中東(メソポタミア)の覇権は、アッシリア新バビロニア、ペルシア、そしてアレキサンダーギリシア帝国へと繋がっていく。
 
イスラエルはソロモン王の後、南北に分裂し、北にイスラエル王国、南にユダ王国ができた。北はアッシリアによって滅ぼされ、南はバビロンによって滅ぼされ、ペルシアはユダの民をエルサレムに帰還させた。と、こんな流れである。
 
しかし、いくらイスラエルが堕落していたとはいえ、なぜここまで集中的に狙われるのか? こういう視点は受験勉強では希薄だった。今は、ストーリーで覚える系の暗記が主流だから、昔みたいに歴史はひたすら暗記!じゃないのかもしれない。
 
イスラエルの地は、北に小アジア(トルコ)、東にメソポタミアイラク)、南にエジプトがあり、古代より交通の要所であった。おそらくそれが狙われる原因であったと思う。単に地政学的な理由だけでなく、民族の違いや宗教の違いも関係しただろう。
 

 
このまま古代史に踏み込んでしまいそうな勢いなので、話を聖書に戻そう。
 
今日の聖句は、バビロン捕囚を預言した南のユダ王国預言者エレミヤによるものだ。預言者は、予言ではなく預言と書く。それは、神の言葉を預かるという意味があるからである。つまり、預言者はその人の考えやビジョンを語るのではなく、あくまで神の代弁者として(スピーカーとして)その役を果たすのだ。
 
古くはアブラハム、そしてモーセもそうであった。エレミヤもまた、神の言葉を聞き、それを民に伝えた。エレミヤ書を読むと、捕囚になることも、解放されることも、すべて神の計画であったことがわかる。
 
神の預言というと、なにやらおどろおどろしい感じがして、たぶんそれはノストラダムスなどの影響なのだと思うが、エレミヤの預言にも確かに神からの厳しい忠告の預言もある。
 
例えば、エレミヤ書10章には「見よ、わたしはこの国のの住民を今度こそ放り出して苦しめる。彼らが思い知るためだ」とか、続く11章には「見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」など、神はエレミヤを通して激しく語っている。
 
可愛い子には旅をさせよと言うが、神はこうしてイスラエルの民を裁くことで試練を与え、神の選びの民として、神に立ち返ることを求めておられる。
 
自分の人生を振り返り、10代の破天荒な暮らしをしているときの父や母の気持ちを思えば理解できる。自分も親になってはじめてわかるものだ。子どもがいかに自分勝手に生きようと、親の愛は変わることがないのである。
 

 
新約聖書には、この「変わることのない神の愛」を父親と二人の息子に例えた、イエスの例話がある。有名な「放蕩息子のたとえ」である。今回は深く掘り下げないが、この例話での父は、まさに神そのものである。
 
神は愛である。愛とは赦しである。赦しとは解放である。解放とは希望である。
 
そうして、神は捕囚となった民に対して、将来の希望を与えるのだ。それが今日の聖句だ。わざわいもあるだろう、しかし、平安もあるのだ。
 
試練の先には脱出の道があるのだ。
 
エレミヤは続けてこう記している。
 
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
 
この動詞の畳みかけ方。
 
私たちが神に対してすること。それを7つの動詞で書き連ねている。
 
「呼びかける」「来る」「祈る」「捜す」「心を尽くす」「求める」「見つける」
 
これらは、今を生きる私たちにもそのまま適用できる。
 
コロナ禍も2年になり、先が見通せない苦しい環境にあるが、希望は失わないでいよう。