しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。
ルカの福音書 10:42
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聖書には何人ものマリアが登場するが、ここでのマリアはベタニアのマリアと呼ばれるマリアである。
このマリアにはマルタという姉がいて、イエスは、ベタニアのマルタとマリア姉妹の家を、この後も頻繁に訪れている。十字架にかけられる直前も滞在している。
居心地が良かったのだろうし、エルサレムから適度な距離があり宣教の拠点としても最適だったのだと思う。
聖書にはカインとアベル、ヤコブとエサウ、新約ではイエスの12弟子であるペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネのように兄弟が多く登場するが、姉妹となると極端に少ない。
だから余計にベタニアのマルタとマリア姉妹は目立つ。
目立つと言っても、姉妹が目立つというより、イエスの姉妹への振る舞いによって、この箇所が目立っている、と言った方が正しい。
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ルカの福音書でマルタとマリア姉妹のことは、10章38~42節のわずか5節しかない。それでも読むものに強烈な印象を与える。
マルタとマリアの性格と行動は正反対に描かれている。
姉のマルタは、家の給仕を一手に引き受け、客人イエスをもてなすためにせわしなく働いている。一方、妹のマリアは、ただ主イエスの足もとに座り、イエスが語る御ことばに耳を傾けていた。
このように対照的な姉妹であったが、姉マルタがイエスに不平を漏らすのである。
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするようにおっしゃってください」
このときの情景を思い浮かべれば、マルタの気持ちはよく分かる。
自分はイエスのためにこんなに尽くしている、なのに妹は何もせずただ座って話を聞いている。
はじめはマリアに向けられていた不平不満が、次第に矛先がイエスに向かう。どうしてイエスは何も言わないのか、そのままにしておかれるのか、手伝わせるのが当たり前ではないか?と。
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しかし、マルタの不平不満は、決して責められるものではない。
私たちもまた、マルタと同じように、神に唾を吐くようなことをしているのではないか。自分は間違っていない、自分が正しいと、自己義認をしているのではないか。
それでもイエスは、マルタの自己義認に対して、お咎めをしていない。むしろ、優しい眼差しで、マルタを諭している。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」
その人が大切だと判断して選んだものを尊重すべきであり、誰が正しいとか正しくないではないのだ、と。
名前を二度繰り返して呼ぶのは特別な意味がある。古くは旧約聖書の時代のモーセ、新約聖書では使徒ペテロやパウロ。彼らは名前を二度呼ばれた。
マルタもまた大切なこと、真理を今まさに告げられているのである。
イエスはマルタが慌ただしくもてなしていることを責めていないし、マリアが座って御ことばを聞いていることも責めない。行動することも信仰、聞くこともまた信仰であるから。
この姉妹の話から思い出すのが詩篇139篇の冒頭。
主よ、あなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。(詩篇139:1-2)
何が最善であるか、何が必要であるか、それは主に知られている。
なんだか安心する。