聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

放蕩息子のたとえ

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だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。
 
ルカの福音書 15:32
 
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前回、ルカの福音書10章に記されたベタニアのマルタとマリア姉妹のことを書いた。
 
行動によって信仰を表す姉マルタと、聴くことによって信仰を表す妹マリアの話。
 
マリアが何もしていないことに憤慨し、イエスに不満を漏らしたマルタ。私たちはそんなマルタを決して責められない、と。
 
どちらが正しいとか間違っているとかではなく、どのような形であっても信仰を示すことを神は喜んでおられると
いう結論であった。
 

 
さて、ルカの福音書をそのまま読み進めていくと、15章に有名な兄弟の話が出てくる。
 
「ある男に二人の息子がいた」で話し始めるイエスの例え、一般には「放蕩息子のたとえ」で知られるこの話には、兄弟が登場する。例話ゆえ二人の名前はない。
 
マルタとマリアはわずか数節の登場であったが、こちらの兄弟については、イエスは20節近くを割いて、丁寧に話している。
 
例話を語る相手が弟子ではなく、敵対するパリサイ人や律法学者だったからだろう。
 
エスがたとえで話すときは、真理を分かりやすく伝えることを目的とする場合(民衆や弟子に話すとき)と、真理を正しく理解させることを目的とする場合(今回はこっち)がある。
 
エスが放蕩息子の例えを語る直前に、同テーマの短めの例話を2つ挟み込んでいる。それは、失われた1匹の羊の話と、失った1枚の金貨の話である。
 
羊と金貨と放蕩息子。伝えたかった真理は、どれも同じである。それは、失ったものを取り戻したことで得られる大きな喜び、そして無条件の神の愛である。
 

 
兄弟のうち、兄は父と一緒に家を守り規律を守り、品行方正に生きてきた。一方、弟は生前贈与を父に迫り、得た金で快楽の限りを尽くしのたれ死ぬ寸前であった。
 
這う這うの体で実家に帰ってきた弟を、父は無条件で迎え入れ「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と祝宴を催した。
 
それを見た兄が憤慨して父に詰め寄った。なぜ歓迎するのか!勝手に家を出て放蕩したヤツじゃないか!と。ここはマルタと同じ心情で、自分は正しい、自分は間違っていない、自分みたいにしていないのは許せない、こうした傲慢がある。
 
兄に対して父が話したこと、それが今回取り上げた聖句、放蕩息子のたとえの最後の1節だ。
 
「私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」
 
尽きることのない無条件の愛と赦しである。このたとえは、弟になりきって読むと、刹那的に生きてきた20代の頃と神を知りクリスチャンになったときのことが思い出される。また、兄になりきって読むと、自分の中に潜む傲慢さや自己顕示欲、承認欲求が滲み出てきて苦しくなる。
 
自分の中にある兄的な性質と弟的な性質、そのどちらも認める。それでも神は、私を愛し受け入れてくださる。