あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。
ルカの福音書 15:10
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あなたは罪人ですか?
そう質問すると、多くの人は、自分は罪人なんかではない、罪を犯したことなどない、と答えるそうだ。
警察のお世話になったことはないし、人に危害を加えたこともない。そんな自分が罪人であるわけないではないか、と。
ムリもない。
私もそう思っていたから。たしかに悪いことはたくさんした、そう自覚している。しかし、さすがに罪人ではないだろう。そんなに悪者ではないだろう、そう思って疑わなかった。
それが神の存在を知り、聖書を開いてみるとこう書いてあるではないか。
正しい者はいない、一人もいない。
(ローマ3:10)
当時貪り読んでいた三浦綾子の著書、なかでも有名な「塩狩峠」にこの聖句があった。
義人なし、一人だになし。
文語訳なのでやや堅い表現だが、だからこそより迫ってくる感じがしたことを覚えている。
*
「塩狩峠」の主人公がこの聖句を目にして凍りついたように、私もまたこの聖句に釘付けになった。
前後関係が知りたくて聖書を開いた。
が、聖書を読み始めて間もない者にとって、「ローマ人への手紙」はあまりに難解。読んでも意味が分からなかった。
すると欄外の注釈に参照ページがあり、この箇所は旧約聖書の詩篇から引用されていることが分かった。
愚か者は心の中で「神はいない」と言う。
彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見下ろされた。
悟る者、神を求める者がいるかどうかと。
すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。
善を行う者はいない。
だれ一人いない。
(詩篇 14:1-3)
創造主である神が人間を見ると、正しい者など一人もいないのだ。
罪の大きさとか程度とか、そういう問題ではなくて、そもそも人は生まれながらにして罪を背負った存在であるのだ。
「塩狩峠」でも「氷点」でも、三浦綾子が書いてきたのは、この生まれながらの罪=原罪、であった。
*
では原罪に対して、私たちはどう向き合えばいいのか。
これがクリスチャンとして歩む人生の目的である。その最初の1歩が悔い改めである。
実はこの最初の1歩が難しい。
なぜなら罪人だと思っていない人に、悔い改めなさいと迫っても、そもそも罪の意識がないのだから。
だから、悔い改めは、罪の意識=認罪、とセットでなければならない。
あぁ自分は罪人だ。この罪を赦してくださるのは神しかいない。これまでは神に反発して生きてきたけど、これからは神を向いて、方向転換して生きていこう。
これが悔い改めなのだ。
こうして私たちが悔い改めると、何が起こるのか。
この世の生き方が変わる。自分が変われば周りも変わる。環境が変われば人生も変わる。いい循環になっていく。
そして天では…なんと、天の御使いたちが喜んでくれているのだ。きっと大合唱であろう。
ハレルヤ!