互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
コロサイ人への手紙 3:13
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前回に続いて教会のこと。
教会員の結婚式に出席した。出席といっても、参列ではなくお手伝い(クリスチャン的にはご奉仕)として、であるが。
しかし、たとえお手伝いであっても教会での結婚式に出られるのは幸せだ。愛のお裾分けにあずかることができる。感謝と喜びの気持ちに満たされる。
別々の人生を歩んでいた男女が出会い、惹かれ合い、ともに歩んで行くことを決心する。その始まりが結婚式という儀式である。この日をもって2本の糸が固く結び付けられる。
定番の「いつくしみ深き」を賛美し、定番のアダムからエバが創られたことを記した聖句「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである(創世記 2:24)」を読んだ。
参列者にはクリスチャンではない方や、キリスト教に触れたことのない方もいたと思うが、創世記のこの箇所を聞いて、違和感を感じたかもしれない。
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男から女が造られたと聞いて、違和感を超えて嫌悪感を抱くことすらあると想像する。
しかも、それは女性のみならず、男性でさえ抱くかもしれないと思える。それくらい現代のジェンダーの多様性は複雑だと認識している。
エバはアダムの肋骨から造られたという聖句を解釈すれば、男のわき腹から取られた女は、男の側にいるべきだ、となる。
そもそも「男は妻と結ばれ一体となる」という一節だって、LGBT的には抵抗感があるだろう。
それでも、聖書的視点に立てば、神さまが人間を男と女に造られたこと、結婚というカタチ、いやカタチというかコンセプトと言ったらいいのか、を私たちに与えたこと、その先に人類の発展と救済というゴールを掲げたこと、を、放棄することはできない。
華やかなウエディングドレスを纏った23才の新婦が、25才の新郎を呼び捨てにして手を引きながら歩いている姿を見て、これもまた2人の愛のカタチだなと苦笑いしつつ、男と女とか、愛と赦しとか、そんな小難しいことに頭を巡らせていた。
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コロサイ人への手紙3章を朗読した後で、牧師は神との三角関係について話した。
三角関係といっても、俗に言うそれではなく、まず、神と夫、神と妻との双方向の関係があって、それに加えて夫と妻の双方向がある、という意味での三角関係である。
3章の他の箇所を取り上げると
「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい(3:17)」では、神との関係を示している。
続く「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい(3:18)」では妻へ奨励を、「夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません(3:19)」では夫のへ奨励をしている。
そして、この三角関係において、最も大切なこととして、今日の聖句に繋がるのである。
私たちは、神に赦された。赦された覚えはないと言い張る人もいるだろうけど、神の存在を知り、信じて受け入れると、赦されていたことに気付くのだ。
神に赦された私たちは、だから、人(結婚においてはパートナーのこと)を赦すことができる。むしろ、積極的に赦すことを求められる。
「赦し」は、恩赦とか大赦で使う「赦」があてられているように権威ある大きな存在が主体である。自分が主体の「許し」ではない。恩赦なら主体は天皇だが、キリスト教の「赦し」は神が主体であり、私たちは神の権威のもと、互いに赦し合うことができる。
愛と赦しはキリスト教の特徴を表す重要なキーワードであるが、愛することと赦すことは反対ではなく、実は同義である。愛することは赦すことであり、愛されることは赦されることである。
Love me. 愛を求めることが、Forgive me. 赦しを求めることと同じとは。なんと奥深きことではないか。