互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
エペソ人への手紙 4:32
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3つの異なる場面から、この聖句が与えられた。
こういう経験をすると、いま自分に必要なんだろうなと強く思わされる。
数年前、結婚指輪を失くした。
そのまま何年も過ぎると、最初は寂しかった薬指も、ないのが当たり前になってしまった。しかし、今年は結婚20周年ということもあり、新調することにした。
せっかくだから、リング裏面にお気に入りの聖句(といっても全部はムリだから何章何節だけ)を入れようと思い、妻と検討して決めたのがこの箇所、エペソ4:32であった。
その2日後、礼拝説教で牧師が「キリストに倣う」と題して取り上げたのがエペソ4:25〜5:2で、その中心が4:32であった。
さらにその2日後、聖書アプリから毎朝届く今日のみことばで、エペソ4:32が示された。
こうして数日の間に、聖書の同じ箇所が三度も与えられた。
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〜し合う、って日本語のいい表現だなと思う。
オリンピックを観ていても、たとえばチーム競技だと、チームメイトと技を競い合う、助け合う、高め合うみたいに、自分だけじゃなく仲間と一緒な感じが伝わってくる。だから感動する。
また、空手や柔道といった個人競技でも自分と向き合うとか言う。相手がいなくても、し合うことができる。
愛するよりも愛し合う。求めるよりも求め合う。認めるよりも認め合う。そして、赦すよりも赦し合う。
一方向ではなく双方向、影響を及ぼし、影響を受ける。
しかし、そうは言っても、他人を赦すことって難しい。その上、赦し合うなんて。赦しの行為は、貝殻がピタッと重なり合うようにはいかない。
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自分は正しい、間違っていないと、自らの正義を振りかざせば、そう、正し過ぎる正義が議論の余地を与えないPCがまさにそうであるように、他人を赦すどころか、排除してしまう。
赦すためには、上げた拳をおさめ、親切さと優しさを持たねばならない。では、込み上げた怒りはどうする?
無理矢理抑え込むのではなく、神に預けたらよい。神は気前の良い方だ。私たちの怒りを受け止められないような方では、決してない。
赦し合うためには、相手の赦しを待つのではなく、まず自分から赦すこと。だって、神はまず私たちを赦してくれたのだから。
だから、赦されるのを待つより、先に赦そう。
続く5章1節には「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」とある。
気前の良い神に倣って、私たちも気前良く赦そう。無条件で愛されている私たちは、それができる。
同じ聖句を三連続で示されたことで、赦し合うことの最初の一歩が、赦すことだとわかった。