神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
コリント人への手紙 第二 7:10
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2種類の悲しみがあると言う。
1つは神の御心に添った悲しみ。もう1つはこの世の悲しみ。と言われても、この2種類の悲しみの違いを理解するのは難しい。
難しいが、それが何をもたらすかについて、パウロが明確に示してくれているから、だからおかげで何とか分かる。
この世の悲しみは、死をもたらす。神の御心に添った悲しみは、悔い改めをもたらす。このように、悲しみがもたらすものが異なる、と。
さらに、より理解を深めるために、ここに「罪」を補ってみる。
この世の悲しみは、「罪」の報酬として死をもたす。神の御心に添った悲しみは、「罪」を贖われた結果として悔い改めをもたらす。
どうだろう。
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そうは言っても、悲しみは、いろいろある。
自分自身に関わることなら、たとえば病気や怪我のようにリアルに身体に悪影響を与えられると、悲しくなる。
身体じゃなくても、心無い言葉を浴びたり失敗したり敗北したりして傷付き、悲しくなる。
希望を失いそうになるとき、出会いのあとの別れや孤独を味わい、悲しむこともある。
さらに、他人の立場や状況を慮って悲しむことだってあるだろう。
悲しみには種類があるし、深さや長さも異なる。
その悲しみをどう受け止め、どう味わい、そしてどう対処するか。その対処によって、与えられた悲しみがこの世のものだったのか、神の御心に添ったものだったのかが判明するのだ。
そう、悲しみが、神さま起点なのか、世の中起点なのかと、はじめから定められているのではないのである。
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とするなら、悔い改めるならば、その悲しみは神の御心に添っている、と結論付けられる。
なるほど、悔い改めをもたらした悲しみが、神の御心に添っていると、逆から考えればいいのだ。
最後に、悔い改めとは?について考えておこう。
「悔い改めなさい」と言われたら、たいていは「いや、悔い改めねばならないほど悪いことはしていない」と言うだろう。あるいは、反省や後悔を悔い改めと言うかもしれない。
その程度の認識だ。
しかし、ただ悔いるのではなく、悔いて改めるとはどういうことか?
悔い改めとは、向きを180度変えることである。まわれ右してクルッと向きを変えた先に見えるのは、主イエスの十字架である。
私たちは悔い改めて、向きを改め、そして十字架を見上げる。そこには、私たちの罪を死をもって赦してくださったイエスキリストがいる。悔い改めによって罪を赦された者は、十字架の恵みによって再び立ち上がることができる。
そうして気付くのだ。あぁ、あの悲しみは神の御心に添ったものだったのか、神に与えられたものだったのか、と。