あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも、憐れみ深くなりなさい。
ルカの福音書 6:36
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憐れみ。
聖書を読まなければ使うことのなかったことば。クリスチャンにならなければ実感できなかった感情、それが憐れみ。
憐れみって「憐れみを乞う」のように、人の同情や情けにすがりたいときに使う。
けど、憐れみを乞わなければならないようなシチュエーションって、実際はあまりない。
憐れみの字を使った憐憫も、自己憐憫のように四字熟語で使うくらいだし、しかもいい意味で使われない。
しかし、聖書を読んで、神を信じ、クリスチャンとして生きていると、憐れみなしでは生きられないことを実感する。
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そもそも、神を知ると、自分の中にある罪の性質を直視させられる。
これを認罪と言うんだけど、あぁ自分は何て罪深いんだ、これまでどれほどたくさんの罪を犯してきただろうと思えば思うほど、罪を赦してほしいと願うわけだ。
すると、誰かを憐れむなんて偉そうな立場にはまるでなくて、神の前にこうべを垂れ、憐れんでくださいと、祈るしかないのだ。
ここで思い出すのはダビデ。
詩篇の51篇はあまりに有名である。1節だけ引用したい。
神よ、私を憐れんでください。
あなたの恵みにしたがって。
私の背きをぬぐい去ってください。
あなたの豊かな憐れみによって。
(詩篇 51:1)
現代ならワイドショーのネタにでもなりそうな、為政者によるスキャンダル。
ダビデは姦通の罪を犯したのち、このように神の前にひざまずき、ただただ自分の罪を悔い改め、憐れみを乞うた。
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罪を赦すことのできる方は神のみだし、私たちの罪の代償としてひとり子イエスを差し出された。
これが神の憐れみ。
罪深い人間を救うために十字架につけられたイエスを通して、私たちは神の憐れみにあずかり、罪赦された者として生きていける。
だからイエスは言うのだ。
父なる神が憐れみ深いのだから、あなたがたも憐れみ深い者でありなさい、と。
キリスト教が説く隣人愛とは、互いに愛し合うことであるが、愛するとはすなわち、憐れみをもって接することにほかならないのではないか、と思う。
憐れまれた者だから、きっと憐れみを与えることができる。その連鎖に希望を見る。