善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。
アモス書 5:14
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ロシアとウクライナがそうであるように、戦争は長期化するとその状態に慣れてしまう。異常が平常に、不自然が自然に変わってしまう。報道に触れても過剰に反応しなくなってしまう。
中東の戦争についても、最初はイスラエルが安息日に攻撃を受けたこと、多くの人が殺されたこと、そして捕虜になったことを大々的に報じていた。ハマスのテロ行為に過剰に反応していた。
しかし、イスラエルが報復攻撃を仕掛けると、今度はガザの惨状が大々的に報じられ、イスラエルの反撃の凄まじさに過剰に反応するようになった。
そしてその状態が続いている。
国連のイスラエル批判は周りに大きな影響を与える。そもそも、どっちもどっちなんだから停戦して頭を冷やしなさいという、いわゆる喧嘩両成敗的なアプローチが、ハマスのテロ行為を助長することに繋がるという認識はないのだろうか。
テロ組織と国家の戦いにおいて、守られるべきは国家でありテロ組織ではない。
それを、テロ組織が潜伏する地域に住む住民の生命の保護を最優先に据え、つまり人道的立場に立って、攻撃をやめなさいと言えば、喜ぶのは住民ではなくテロ組織である。
住民が望むのは、争いよりもテロ組織の消滅なのに。
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クリスチャンである私たちにとって、イスラエルが攻撃されることは、驚きを超えてショッキングである。
なぜなら、この争いを歴史的に、そして聖書的に認識するからだ。
人道的支援はもちろん大切である。しかしそれよりも大切なのはテロのない世界の実現である。
そのためには正しい歴史認識が欠かせない。そのためにハーベストの中川牧師の動画が役立つ。
https://m.youtube.com/watch?v=KITIPlQYUVc
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アモス書5章は哀歌である。
南王国ユダの一介の羊飼いであるアモスは、神に預言者として召され、隣国である北王国イスラエルに対する罪と裁き、そして破滅のメッセージを綴った。
このメッセージは、歴史的にはアッシリア捕囚のことを指すが、預言的には「主の日」を示す。
「主の日」とは、キリストが地上に再臨して始まる、神の統治による千年王国のことである。
しかし、アモスは「主の日」について喜びを語らない。
ああ。主の日を切に望む者。主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。(5:18)
だからこそ、今日の聖句のように、求めるべきは悪ではなく善であり、そうすれば主は私たちとともにいてくださる。
善を求める生き方。
アモスはこうも述べている。
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。(5:24)
善とは公正であり正義。
私たちは、善を行なうよりも、善でいることを切に望む。公正と正義を纏いたい。