聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

昼のもの

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しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

テサロニケ人への手紙 第一 5:8

But since we belong to the day, let us be sober, putting on faith and love as a breastplate, and the hope of salvation as a helmet.

1Thessalonians 5:8


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前回に続いて「主の日」のことを考えていく。

まずは、テサロニケ人への手紙第一の5章のいくつかの聖句を拾ってみる。

・主の日は盗人が夜やって来るように来る。
・人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように突然の破滅が襲う。
・それを逃れることは決してできない。
・暗闇の中にいないなら、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはない。

暗闇とか破滅とか、「主の日」には恐ろしいイメージがつきまとう。旧約聖書ゼパニヤ書のこの預言が下敷きになっていたことが予想される。

主の大いなる日は近い。それは近くすぐにも来る。主の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。(ゼパニヤ書 1:14-16)

この預言、確かに怖い。パウロは煽っているのか?

* 

聖書に精通していたパウロは、ゼパニヤのこの預言のことも当然知っていた。

しかし、聖書を熟知しているからと言って、それをただ引用したかったのではない。パウロが「主の日」のことを語るのは、人々に恐怖を与えたいのでもない。

復活のイエスに出会い改心したパウロは「主の日」の認識をも改めたはずだ。

確かに預言にはそう書いてあるし、「主の日」の恐怖を植え付けられているけど、それが私たちの終わりなのではない。

パウロは闇の中に光を見、破滅の中に希望を見ている。だから、暗闇とか破滅とか述べた直後に「私たちは昼の者」であると断言するのである。

正しい理解を促した上で、では、どう過ごせばいいのか? を説く。

将来を見据えながら、視点はむしろ「いま」にある。

5章の続きを示そう。

・眠っていないで目を覚まし、身を慎んでいましょう。
・神は、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださった。

・私たちが目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるために、主が死んでくださった。
・互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。 

ここにはパウロの信仰による確信がある。

パウロの主張は明確で、それは「目を覚ましていなさい」ということである。

たとえいま闇の中を歩んでいるとしても、私たちは昼の者、光の子として生きていくのだと。

胸当ては心臓を保護する防具であり、敵の攻撃によって致命的な傷を負うことのないようにするためのものである。信仰と愛を胸当てにするとは、それによって闇の力、つまりサタンから身を守ることである。

救いの望みをかぶとにするのも、胸当てと同じように闇の支配を受けないためだ。

信仰・愛・希望をもって光の中を歩もう。