あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
ピリピ人への手紙 4:9
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「この世界の片隅に」をTVで観た。
劇場では2016年に公開、TVでは昨年も放映されたようだが、前情報は全くなく、たまたまつけたらやっていたから、何の気無しに観はじめた。
すごい作品だった。どんどん引きずり込まれていった。戦時下の市井の人々、しかも舞台の呉は当時、日本海軍の拠点でもあり、ひっきりなしに空襲がある中で、日常の暮らしと感情の揺らぎが細やかに描かれていた。
同じ戦争映画でも「火垂るの墓」とは違った。もっと繊細で、柔らかで、それでいて平和の尊さをしっかりと考えさせてくれた。
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そう、毎年この時期になると、平和を考えさせる。こと今年は戦後75年ということもあり、しかもStay Homeな夏だったこともあり、うちに篭ってTVを観たり本を読んで、平和について思いを馳せて過ごすことが多かった。
平和といえば、聖書ではイエスがこのように述べている。
平和を作り出す人は幸いです、と。
平和は作り出すものであると、つまり、主体的かつ能動的なものであると、イエスは集まった数千人の群衆に語ったのである。
このように、聖書における平和は、ただ戦争がない状態を指すのではなく、積極的に他者との関係において、互いを理解し尊重し、労り励まし慰め合い生きることを求める。
なぜなら、私たちを創られた神は、平和の神だからである。
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今日の聖句では、平和の神が私たちと一緒にいてくださる、とある。
ただ、直前には条件があって、見たことや聞いたこと、学んだことや受けたことを行ないなさい、とある。
やはり、能動的かつ積極的でなければならないのだ。
見て終わり、聞いて終わり、学んで終わり、受けて終わり、ではなく、それらを行動に移さねば、平和を作り出すことはできない。
私たちは罪の性質を内在している存在だから、自然なままでいると平和から遠ざかり、心に平安がなく、他者と争うようになる。
自然体が悪いと言っているのではなく、罪と悪に躓かないように、よくよく注意していないといけない、ということである。
そのために、他の箇所にはこうも書いてある。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
喜び、祈り、感謝する。
平和の神よ、どうか私たちと一緒にいてください。平和を作り出すものとして用いてください。