聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

平和の実

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ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。


ローマ人への手紙 14:19


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前回に続き平和のこと。


同時多発テロから20年、アメリカ主導の平和維持が脆くも崩れてしまったアフガニスタン


連日届くニュースに胸が苦しくなる。


そしてまた多くの人の血が流され、住むところを失った人たちが難民として国外に逃れていく。


平和を築くことはこれほどまでに難しいのか。


人と人が憎しみ合い、殺し合い、そこから何が生まれるのか。



ボブディランの「風に吹かれて」がラジオから聴こえてきた。


50年前、アメリカはベトナム戦争の只中にあった。アコギに乗せてさめざめと歌うディランの声はどう響いたのだろう。


How many deaths will it take till he knows that too many people have died?
(どれだけたくさんの犠牲を出せば、あまりにも多くの人が死んでしまったことに気付くのだろう)


The answer, my friend, is blowin’ in the wind. The answer is blowin’ in the wind.


(その答えは、友よ、風の中さ。答えは風に舞っているんだ)


アフガンのことがあって、ラジオはこの曲を流したのかもしれない。


答えを出せたら、争いは終わるのだろうか。


清志郎が日本語でカバーしていた。その答えは風の中さ、風が知ってるだけさ〜、そう歌っていた。彼も反戦の人だった。



ユダヤ教原理主義者であるパリサイ派に属し、キリスト教を迫害していたパウロは、復活のイエスに出会い改心してからは、キリスト教の熱心な伝道者となった。


そのパウロが平和を求めることを願っている。


パウロは同じ14章で「私たちは互いに裁き合わないようにしましょう」と書いている。


互いに裁かないこと、それが平和を保つための秘訣だ。


裁くのは、自分が正しい、自分が偉い、自分が上と思っているから。裁かないためには、謙遜さや寛容さ、そして誠実さが必要になってくる。


謙遜、寛容、誠実...これらを身に付けるには?


聖書では、これらの性質を「御霊の実」と表現している。聖霊の導きに従い歩むとき、私たちは豊かな実を結ぶ。それが御霊の実である。


御霊の実を実らせ、互いに裁かないようにする。そこに平和がある。平和という状態が生まれる。


自分自身の心の平和は、隣人との平和につながり、隣人との平和は地域の平和につながり、地域の平和は日本の平和につながり、日本の平和は世界の平和につながる。


外の平和を求めるには、まずは内なる平和を得ることから。

ピースメイカー

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悪を離れて善を行い
平和を求めそれを追い続けよ。


詩篇 34:14


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終戦76年目を迎えた。


今年は東京五輪やコロナ禍で、どうもふわふわと浮ついているような感じだ。


首相が広島の平和祈念式典で重要な箇所を読み飛ばすとか、まさにそうだなと思わせる。


我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。
 
このくだりを言えなかったことは致命的だ。
 
平和について、特に戦争や原爆について、私が知ったのは、小学生のときに読んだ「はだしのゲン」だった。絵本の「ひろしまのピカ」はショッキングだった。
 
その後、中学生のときに「黒い雨」、高校生のときに「野火」を読んだ。
 
中学の公民の授業で憲法を学び、非核三原則を知った。希求という熟語もはじめて知った。希み求める、普段使わないけど、実にいい言葉だ。
 

 
大人になるにつれ、現実の生活に追われ慌ただしく過ごすようになると、平和の有り難みを忘れてしまう。
 
立ち止まって、平和の尊さを噛み締めたい。
 
詩篇では、善を行い平和を求めよ、とある。さらに、追い続けよとも。
 
いにしえの偉人も分かっているのだ。
 
平和は儚いと。平和は追い求め、求め続けないと成り立たないものであると。
 
エルサレムの語源は、エルが神、サレムがシャロームで平安の意味があると言う。神による平和、神が治めることで得られる平和、しかも、追い求めないと得られない平和。
 
待っていても平和は得られず、追い求めると得ることができる。


それは、自らの心の平安であり、他者との関係における平穏であり、そして世界の平和である。
 

 
日本が平和を祈念しているその裏で、タリバンアフガニスタンを制圧したというニュースが入ってきた。
 
あの同時多発テロから20年、どうしてこうなるの?と憤らずにはおられない。
 
また多くの一般人が犠牲になるかもしれない。多くの難民が発生するかもしれない。
 
それでもアフガンの平和を追い求める。
 
エスはこう述べた。
 
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ 5:9)


平和を求めるとは、平和をつくることであった。


悪意を捨て善意をまとい、悪を捨て善を行なう。それが、平和をつくるということだ。


Peacemakerとして、平和を希求しよう。


 

赦し合う

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互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。


エペソ人への手紙 4:32


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3つの異なる場面から、この聖句が与えられた。


こういう経験をすると、いま自分に必要なんだろうなと強く思わされる。


数年前、結婚指輪を失くした。


そのまま何年も過ぎると、最初は寂しかった薬指も、ないのが当たり前になってしまった。しかし、今年は結婚20周年ということもあり、新調することにした。


せっかくだから、リング裏面にお気に入りの聖句(といっても全部はムリだから何章何節だけ)を入れようと思い、妻と検討して決めたのがこの箇所、エペソ4:32であった。


その2日後、礼拝説教で牧師が「キリストに倣う」と題して取り上げたのがエペソ4:25〜5:2で、その中心が4:32であった。


さらにその2日後、聖書アプリから毎朝届く今日のみことばで、エペソ4:32が示された。


こうして数日の間に、聖書の同じ箇所が三度も与えられた。



〜し合う、って日本語のいい表現だなと思う。


オリンピックを観ていても、たとえばチーム競技だと、チームメイトと技を競い合う、助け合う、高め合うみたいに、自分だけじゃなく仲間と一緒な感じが伝わってくる。だから感動する。


また、空手や柔道といった個人競技でも自分と向き合うとか言う。相手がいなくても、し合うことができる。


愛するよりも愛し合う。求めるよりも求め合う。認めるよりも認め合う。そして、赦すよりも赦し合う。


一方向ではなく双方向、影響を及ぼし、影響を受ける。


しかし、そうは言っても、他人を赦すことって難しい。その上、赦し合うなんて。赦しの行為は、貝殻がピタッと重なり合うようにはいかない。



自分は正しい、間違っていないと、自らの正義を振りかざせば、そう、正し過ぎる正義が議論の余地を与えないPCがまさにそうであるように、他人を赦すどころか、排除してしまう。


赦すためには、上げた拳をおさめ、親切さと優しさを持たねばならない。では、込み上げた怒りはどうする?


無理矢理抑え込むのではなく、神に預けたらよい。神は気前の良い方だ。私たちの怒りを受け止められないような方では、決してない。


赦し合うためには、相手の赦しを待つのではなく、まず自分から赦すこと。だって、神はまず私たちを赦してくれたのだから。


だから、赦されるのを待つより、先に赦そう。


続く5章1節には「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」とある。


気前の良い神に倣って、私たちも気前良く赦そう。無条件で愛されている私たちは、それができる。


同じ聖句を三連続で示されたことで、赦し合うことの最初の一歩が、赦すことだとわかった。

 

 

いのちのパン

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わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。


ヨハネ福音書 6:35


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何を食べようか、何を飲もうか。


そう悩むことのない飽食の時代には、飢えや渇きは経験としては得られないかもしれない。


ただ、この言葉を額面通りに身体にとっての飢えや渇きと理解するのではなく、霊的な飢えや渇きと理解しなければ、イエスがこう語っていることの真意はつかめない。


この聖句は、有名な「五千人のパン」の奇跡の直後に記されている。


ヨハネ福音書6章を冒頭から追いかけていくと、情景が浮かび、イエスと群衆のやりとりが、そしてそのズレがよくわかる。


箇条書きで追いかけてみたい。



(1)イエスが湖のほとりに到着すると、数千人とも言われる大勢の群衆が追いかけてきた。


(2)群衆を憐れまれたイエスが、群衆にパンを分け与えるように弟子に命じた。


(3)持っているパンを集めてもとても分け与えるような量がなく、弟子たちはイエスの無謀な要求に嘆いた。


(4)イエスはパンを取り感謝の祈りを捧げ、パンを全員に与えられた。パンは全員に充分であった。


(5)群衆はこの奇跡を見て、イエスこそまことの預言者だといって感心した。


(6)その後、イエスと弟子たちは湖の向こう岸に移動した。※ここでも1つの大きなドラマがあるが、今回は割愛。


(7)翌日、イエスたちが移動したことをしった群衆は、自分たちも後を追って向こう岸に行った。


(8)あなたたちが来たのは奇跡を見たからでなくパンを食べて満腹したからだろうと、群衆の本心をイエスが見破る。


(9)続けて、なくなってしまう食べ物のためではなく、永遠のいのちにいたる食べ物のために生きなさいと、イエスが諭す。


(10)群衆は、イエスを信じるために何か奇跡を起こしてくれるのかと詰め寄った。※ここでズレが顕わになってくる。



すでにパンの奇跡を体験しているにもかかわらず、何か奇跡を起こしてくれるのか? 起こしてくれれば信じることができると言う群衆の哀れなこと。


花より団子ならぬ、奇跡よりパン。


群衆はまたパンがほしくて追いかけてきたのだ。イエスがパンの奇跡を起こしたのは、その昔、モーセが荒野でさまよう40年間、神がマナを降らせ腹を満たしたことを思い出させるためであった。


神のパンが天から降ってきていのちを与えることを分からせるためであった。


それなのに、群衆は言う。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」と。そう、通じなかった。


そこで、イエスが「わたしがいのちのパンです」と宣言したのだ。


強調点は「わたしが=I AM」であり、私がいのちのパンを与えると言ったのではなく、わたしがいのちのパンそのものであると言ったのだ。


しかし、残念ながら、群衆は霊的な飢えや渇きではなく、身体的な飢えや渇きを満たすことから出ることはなかった。


エスを信じ受け入れることが、いのちのパンをいただくということなのに。


ならば私たちは、イエスを喜んで受け入れよう。


霊的な飢えや渇きから解き放たれ、生きる喜びを得よう。

 

 

福音とは

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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。


ローマ人への手紙 10:9


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福音(Good News)とは良き知らせのこと。


私たちにとっての良き知らせとは、イエスキリストがこの世に来てくださったことである。


キリストはこの世に来られ、私たちの罪を贖うために十字架で死んで墓に葬られた。しかし、三日目によみがえり、天に昇られた。そして、いつか再び戻って来られる。


これを福音の三要素と言う。


パウロの言葉を引用しよう。


「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。


そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。


私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。


キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです」


(コリント人への手紙 第一  15:2-5)



エスを主と告白する。


主、これはマスターのことで、ホテルの支配人とか管理人のような存在。


エスが自分の主、つまり、私を支配し管理するのがイエスということである。


他の誰でもなく、自分にとっての主であると確信すると、自分の主導権を明け渡すことができる。


と、言葉で書くとあっさりしてしまうが、イエスを自分の主である、支配者であると受け入れることを受け入れることが、難しかった。


明け渡してなるものか、自分の管理は自分でやるに決まっている、そう頑なになっていた。


そんな過去の自分を思い出して微笑ましく思えるほどに、ようやくなれた。



福音の三要素は奥深い。


私の罪のために十字架につけられ死んだ。このことを受け入れるだけでも苦しい。


そもそも自分の罪を認めること、認罪が怖い。しかし、認罪なくして贖罪はあり得ない。罪を認識するからこそ、それが赦されることが救いだと分かるからだ。


十字架刑を受けた罪人は、普通なら死んでも磔のまま野晒しになる。イエスはそうならず、十字架から降ろされ、墓に埋葬された。イエスは罪人ではないからだ。


死んで墓に葬られたイエスは三日目によみがえった。これは罪の結果として人間に与えられた死を克服した、ということである。


福音を受け入れよう。


エスを主と告白し、神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるならあなたは救われると、パウロがローマ人に語ったこの言葉を、そのままに。


救いの恵みを受け取ろう。

 

神の作品

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実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。


エペソ人への手紙 2:10


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中学生のとき、1回だけ「1」を取ったことがある。


忘れもしない。それは入学したばかりの中1の春、学校近くの牡丹園にスケッチに行き、水彩絵の具で色付けをした、その後のことだ。


美術室で全員が自分の作品を手に持ち、一列に並ぶ。先生が1枚ずつ絵を見て「5」とか「3」とか、大声で5段階評価を付けていった。


そして、自分の作品を見て「1」と言った。


それはそのまま通知表の評価になった。後にも先にも通知表で「1」だったのは、そのときだけである。


小学校の図画工作は好きだったし、取り立ててセンスがあるとは思わなかったけど、まさか「1」とは。あのときのショックは今もよく覚えている。


幸いなことに、その先生はその年度で退職され、中2では違う先生になった。中2では、粘土で作った花瓶が県の優秀作品賞に選ばれるという栄誉にあずかった。


花瓶のアイデアの段階では、きわめて凡庸だった。粘土で作り始めても、ごく普通のありふれた花瓶だった。しかし、新しい先生が1つのアイデアをくれたことで、作品が大きく変化し、見たことのない独創的な作品に生まれ変わった。



作品、と聞くと、今もこのことを思い出す。


作品は、ありふれたものだろうが独創的なものであろうが、1つとして同じものはないオリジナルなものである。見た目は同じに見えても、作り手にしかわからない細かな工夫があったりする。


同じように、私たちは神の作品である。1人として同じ人間はいない。1人1人がオリジナルな存在である。


神によって、細かな特徴が1人1人に与えられる。それを賜物(ギフト)という。


神によって備えられた賜物を、私たちはどうする?



聖句にはこうある。


私たちが作られたのには、理由がある。それは、良い行いをするためである。


神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました、とある。


父親や母親が子どもに対して、正しい道をまっすぐ進んでほしいと願うように、神もまた、私たちに対して、良い行いに歩むようにと願っておられる。


良い行い、それは具体的にどういうこと?


それはイエスキリストに倣うこと。神であり人であるキリストこそが、私たちの模範である。


WWJDというフレーズがある。これは、What Would Jesus Do? のイニシャルで「イエスだったらどうするだろう」という意味。


悩めるとき、苦しいとき、悲しみの中にあるとき、迷えるとき、怒りに我を忘れそうなとき、不安で押しつぶされそうになるとき...。


エスさまだったらどうするだろう...と考える。その先に、良い行いがきっとある。


備えられたオリジナルな賜物を用いて、良い行いをしよう。

 

診療台の上

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神よ、私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。


詩篇 139:23


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診療台の上に仰向けに寝ている。


私を覆うものは何もない。何も身に付けず、無防備に横たわっている。


音はない。空気を支配するのは、ただ静寂だけ。


一点の光が見える。


それは筋状ではなく、まるでタイのコムローイのように、ゆらゆらと漂う球状のものだ。


その光のボールが、私の頭や手足、体軀を周り巡っている。


無抵抗な私は、抗うことなどできず、その動きを感じることしかできない。


…と、ここで描いたのが、神が私を探っているイメージだ。



詩篇139篇は、袖書きにダビデの賛歌とある。


全篇に、ダビデの神への信頼と賛美が満ちている美しい歌である。


羊飼いの少年に過ぎなかった少年が、油注ぎを受け、イスラエルの王になる。地位も名誉も全て手に入れるが、姦淫や殺人の罪を犯す。妻の嘲りを受け、息子に裏切られる。


こうして人生の酸いも甘いも知り尽くしたダビデが、無防備に、無抵抗に、神の一方的な愛に感謝し、栄光を神に帰しているのが、詩篇139篇だ。


書き出しはこうだ。


主よ、あなたは私を探り、知っておられます。
あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ
遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは、私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。


ダビデもまた診療台の上にいる。



神は私の心のすべてをご存知である。


毎日味わう喜びも悲しみも、嬉しさも寂しさも、高揚感も絶望感も、歓喜も思い煩いも、すべて。


神の前で、我力で生きようなんて思い上がりも甚だしい。


建築家が、自分の手がけた建築物を隅から隅まで知り尽くしているように、私たちを創られた神は私たちを知り尽くしている。


私たちは皆、診療台の上にいるのだ。


最後に、使徒パウロが、ローマ人への手紙 11:36に記した祈りで、締め括ろう。


すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。