わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
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何を食べようか、何を飲もうか。
そう悩むことのない飽食の時代には、飢えや渇きは経験としては得られないかもしれない。
ただ、この言葉を額面通りに身体にとっての飢えや渇きと理解するのではなく、霊的な飢えや渇きと理解しなければ、イエスがこう語っていることの真意はつかめない。
この聖句は、有名な「五千人のパン」の奇跡の直後に記されている。
ヨハネの福音書6章を冒頭から追いかけていくと、情景が浮かび、イエスと群衆のやりとりが、そしてそのズレがよくわかる。
箇条書きで追いかけてみたい。
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(1)イエスが湖のほとりに到着すると、数千人とも言われる大勢の群衆が追いかけてきた。
(2)群衆を憐れまれたイエスが、群衆にパンを分け与えるように弟子に命じた。
(3)持っているパンを集めてもとても分け与えるような量がなく、弟子たちはイエスの無謀な要求に嘆いた。
(4)イエスはパンを取り感謝の祈りを捧げ、パンを全員に与えられた。パンは全員に充分であった。
(5)群衆はこの奇跡を見て、イエスこそまことの預言者だといって感心した。
(6)その後、イエスと弟子たちは湖の向こう岸に移動した。※ここでも1つの大きなドラマがあるが、今回は割愛。
(7)翌日、イエスたちが移動したことをしった群衆は、自分たちも後を追って向こう岸に行った。
(8)あなたたちが来たのは奇跡を見たからでなくパンを食べて満腹したからだろうと、群衆の本心をイエスが見破る。
(9)続けて、なくなってしまう食べ物のためではなく、永遠のいのちにいたる食べ物のために生きなさいと、イエスが諭す。
(10)群衆は、イエスを信じるために何か奇跡を起こしてくれるのかと詰め寄った。※ここでズレが顕わになってくる。
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すでにパンの奇跡を体験しているにもかかわらず、何か奇跡を起こしてくれるのか? 起こしてくれれば信じることができると言う群衆の哀れなこと。
花より団子ならぬ、奇跡よりパン。
群衆はまたパンがほしくて追いかけてきたのだ。イエスがパンの奇跡を起こしたのは、その昔、モーセが荒野でさまよう40年間、神がマナを降らせ腹を満たしたことを思い出させるためであった。
神のパンが天から降ってきていのちを与えることを分からせるためであった。
それなのに、群衆は言う。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」と。そう、通じなかった。
そこで、イエスが「わたしがいのちのパンです」と宣言したのだ。
強調点は「わたしが=I AM」であり、私がいのちのパンを与えると言ったのではなく、わたしがいのちのパンそのものであると言ったのだ。
しかし、残念ながら、群衆は霊的な飢えや渇きではなく、身体的な飢えや渇きを満たすことから出ることはなかった。
イエスを信じ受け入れることが、いのちのパンをいただくということなのに。
ならば私たちは、イエスを喜んで受け入れよう。
霊的な飢えや渇きから解き放たれ、生きる喜びを得よう。