聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

愛、尊敬、平和

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その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。


テサロニケ人への手紙 第一 5:13


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ビジネススクールの授業も3回目を終えた。


1回100分の授業を2コマ、それを3本続ける土曜日。朝9時に学校に行って、夜8時までこもる。しんどいけど、悪くない。たぶんこれまでの人生で一番勉強している。


中でもリーダーシップ論の授業がハードだ。予習として教材に目を通し、授業はグループワークが多く、そしてレポートが宿題として課される。


さらにグループワークも平日の夜に進めないと間に合わない、なんてありさまである。


仕事をしながらの学び、睡眠時間の確保も厳しい…しかし、これがなかなか刺激的で楽しい。


今週はリーダーシップ論で、チームワークについての課題が出ている。


そこでこの聖句の登場、である。前置きが長くなったが。



チームにおけるリーダーシップの研究は、アメリカを中心に数多ある。


とりわけ、心理的安全性のような目に見えない部分で、リーダーシップをどう発揮するのか、リーダーはどう影響を及ぼすのか、この辺りの研究は現在進行形である。


だから私たちもさまざまな研究を学び、そこから日々の業務、いわゆる現場に適用しながら、研究が有効かどうかを身をもって検証する。


そこで私は自問するのだ。


What should I do as Christian? と。


私はリーダーである前にクリスチャンだ。リーダーとしてどう動くか?の前に、クリスチャンとしてどう考えどう動くか?



表出する言葉や行動がどうあるべきかより前に、もっと根本的に、ベースとなる心持ちというかアティチュードとして、今日の聖句を刻んでおきたいと思うのだ。


3つ並んでいる。


・愛をもって
・尊敬を払って
・平和を保って


である。


ラブ&ピースにリスペクトが加わっている。


これを職場で実践する、リーダーとして実践する。自力でそうしようと思っても難しいと思う。


だから、そうできるように祈るのだ。


愛を持とう、尊敬を払おう、平和を保とうと、思えば思うほど、自我が顔を出してきて、自己欺瞞に陥る。


自己顕示欲を満たすのがオチだ。


そうじゃなくて、愛を持てるように、尊敬を払えるように、平和を保てるように。

 

そう祈って、私たちの言葉や行動が神によって清められ、そして規定されることを願うのだ。

 

 

人と木と

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木には望みがある。
たとえ切られても、また芽を出し
その若枝は絶えることがない。


ヨブ記 14:7

 

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ヨブ記


これまでほとんど取り上げたことがないような気がする。


長い上に、難解この上ない。


神に祝福されたヨブが、神への信頼を失い、神を憎む。


でも最後には神への信頼を回復し、再び神からの祝福を受ける、とそんなストーリー。


で、そのヨブが、神への恨みつらみを述べているのが今日取り上げた聖句である。


これは対句になっていて、こう続く。


「人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか」と。


木には望みがあるが、人は死んだらおしまいだと。



ヨブはアブラハムと同時代に生きた人と言われていて、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けてきたと書かれている。
 
さらに、ヨブはお金持ちで、羊七千匹、らくだ三千頭を持ち、子どもも十人いて、幸せに暮らしていた。
 
そんなヨブが何故、ここまで神を恨んだのかというと、一度にさまざまな不幸な出来事が起きたからである。
 
家畜を失い、子どもたちを失い、そのうえ、全身ひどい皮膚病になって、体中かきむしって苦しみ嘆く生活を送るようになった。
 
それでも、最初のうちは「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言っていた。



苦しみを与えられたとき、不幸もまた受け入れようと思えるうちは、まだ余裕があるということだ。


しかしヨブは徐々に変貌し、遂には神を呪った。


人は死んだらおしまいだが、木は切られても芽を出し若枝は絶えない。木には望みがある、と神を恨んだ。


この木と人の対句法であるが…ハッとした。重要な気付きを得た。


木と人との対比に、木に架けられたキリストを見た。


十字架につけられたキリストは、死んで、そして復活した。切られても芽を出した。復活して今も生きている、若枝は絶えないのだ。


木には望みがある、キリストのことを暗示していたんだ。


最後にヨブは神に立ち返り、再び祝福を得たように、私たちもまた苦しみの中にあって、神を恨むようなことがあったとしても、復活のキリストを信じることで、再び恵みを得るのだ。


ヨブ記にこんな大きな喜びがあったなんて!

 

 

味わい見つめる

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味わい、見つめよ。
主がいつくしみ深い方であることを。
幸いなことよ、主に身を避ける人は。


詩篇 34:8


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味わい、そして見つめよ。


聖書ぽくない表現だな…と思う。


日本語よりも英語で読んでみると、よりそう感じる。

 

Taste and see that the Lord is good;
blessed is the one who takes refuge in him.


Taste and seeとある。


何を?というと、The Lord is Goodである。神がよい方であることを味わいなさい、と。


日本語訳のように、慈しみ深い方と奥ゆかしく言うよりも、神はよい方と直接的に言った方がはるかによく伝わる。


味わうとあるから、口にするものではあるが、ではいったい何を口にするかと言うと、祈りであり、みことばであり、賛美である。


詩篇34の冒頭に「私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある」とあるように、賛美をもって主を味わう。



印刷された聖書を誰もが手にすることができる現代は、自由にみことばを声に出せるが、昔は巻物に記された聖書をシナゴーグの代表者や伝道者が朗詠し、それを聞いて親しんだ。


人々は聞いたみことばを繰り返し口に出して誦じて、そして、主が素晴らしい方であることを味わったことだろう。


詩篇には、他にも、みことばを味わうことに触れている箇所がある。


あなたのみことばは
私の上あごになんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。
詩篇 119:103)


英語訳だと


How sweet are your words to my taste,
sweeter than honey to my mouth!
ーPsalm 119:103


こっちも英語訳の方がいい。


日本語訳はどうしても表現が固い。英語だと感嘆文に比較級を合わせて、感情がほとばしる様子が伝わってくる。



慌ただしく毎日を過ごす中で、聖書のみことばを聞き、それを口にして味わうには、心を穏やかにしてオープンにしておかなければならない。


目の前のことに取り掛かって、気がつけば時間が過ぎているような、自転車操業みたいな過ごし方をしていると、味わうことなんてできない。


自戒を込めて言っている。


今日の聖句の後半をよく見てみると、主に身を避ける者は幸い、とある。


ここが大切だ。


立ち止まって、心を主に向けて、みことばを味わい、そして見る。見るのは、自らの心の内である。


主に身を委ね、主に依り頼む。


そうすれば、大いなる祝福がある、ということだ。


祝福を、ください。

憐れみ

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あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも、憐れみ深くなりなさい。


ルカの福音書 6:36


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憐れみ。


聖書を読まなければ使うことのなかったことば。クリスチャンにならなければ実感できなかった感情、それが憐れみ。


憐れみって「憐れみを乞う」のように、人の同情や情けにすがりたいときに使う。


けど、憐れみを乞わなければならないようなシチュエーションって、実際はあまりない。


憐れみの字を使った憐憫も、自己憐憫のように四字熟語で使うくらいだし、しかもいい意味で使われない。


しかし、聖書を読んで、神を信じ、クリスチャンとして生きていると、憐れみなしでは生きられないことを実感する。



そもそも、神を知ると、自分の中にある罪の性質を直視させられる。


これを認罪と言うんだけど、あぁ自分は何て罪深いんだ、これまでどれほどたくさんの罪を犯してきただろうと思えば思うほど、罪を赦してほしいと願うわけだ。


すると、誰かを憐れむなんて偉そうな立場にはまるでなくて、神の前にこうべを垂れ、憐れんでくださいと、祈るしかないのだ。


ここで思い出すのはダビデ


詩篇の51篇はあまりに有名である。1節だけ引用したい。


神よ、私を憐れんでください。
あなたの恵みにしたがって。
私の背きをぬぐい去ってください。
あなたの豊かな憐れみによって。
詩篇 51:1)


現代ならワイドショーのネタにでもなりそうな、為政者によるスキャンダル。


ダビデは姦通の罪を犯したのち、このように神の前にひざまずき、ただただ自分の罪を悔い改め、憐れみを乞うた。



罪を赦すことのできる方は神のみだし、私たちの罪の代償としてひとり子イエスを差し出された。


これが神の憐れみ。


罪深い人間を救うために十字架につけられたイエスを通して、私たちは神の憐れみにあずかり、罪赦された者として生きていける。


だからイエスは言うのだ。


父なる神が憐れみ深いのだから、あなたがたも憐れみ深い者でありなさい、と。


キリスト教が説く隣人愛とは、互いに愛し合うことであるが、愛するとはすなわち、憐れみをもって接することにほかならないのではないか、と思う。


憐れまれた者だから、きっと憐れみを与えることができる。その連鎖に希望を見る。

損と得

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人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。


マルコの福音書 8:36


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この聖句は、以前の日本語訳(口語訳)では「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」となっている。


儲けるとか、損とか得とか、直接的な表現が特徴的である。


世界を儲けるって、億万長者みたいなイメージがある。でも、そうではなくて、自分の思い通りに生きていくことを指している。


欲にまかせて、やりたいように好き放題に生きたとしても、命を絶たれたらそれでおしまいじゃないか、そしたらいったい何が残るというのだ。


私も20代の頃、そうやってうそぶいていた。


生きた痕跡や生きた証を、どうしても残さなきゃならないという理由はないけど、残された者には、先立った者とのいろいろな記憶が残る。


その記憶がいいものであれば、世界はもっと良くなる。


どう生きるかよりも、どう死ぬか、だ。


今はそう思う。



何年か前に亡くなった母方の祖母は、生前「死んだらおしまいや」が口癖だった。


だからといって、放縦な人生を歩んだのかといえばそんなことはまったくなく、むしろ真逆で、10代で嫁ぐと、祖父の家は10人以上が住む大所帯で、毎日メシの世話を必死でするだけだった、と聞いたことがある。


母を含む3人の娘を育てそれぞれ婚家に送り出し、祖父には先立たれ、姑である曾祖母を看取り、晩年は何のとらわれもない自由な生活を送っていた。


アルコールの摂取が過ぎたのか、最後はやせ細って、そして、亡くなった。


祖母のもう1つの口癖が「しゃあないて」だった。


フランス語のケセラセラ、韓国語のケンチャナヨ、英語ではなんて言うんだろう、I have no choiceとか、That's lifeとかかな。


どれほど困難なことがあっても、「まぁ、しゃあないて」といって何度も乗り越えてきたのであろう。私も受験に失敗したときや、酷いアトピーで自暴自棄になったとき、いろいろな場面で祖母に「しゃあないて」と励まされてきた。


仕方がないと言って苦難を乗り越えるのは、無念さや諦めのように思えるが、実はそうではない。


そうではなくて、現実をそのまま受け入れるということなのだ。自分の力では如何ともしがたい現実、変えられない現実を、そのままに受け入れる。それが「しゃあないて」に込められた思いなんだろう。



エスは、仕方ないとは言わない。


なぜなら私たちが生きている価値は確実にあるし、生かされている意味もあるからである。


その価値や意味を教えてくれるのが聖書であり、イエスのことば、存在である。


私たちは神を知り、イエスに従うと決心したときに救われる。


信仰を告白し、クリスチャンとして歩む。


洗礼の儀式は水を通過するが、それは古い自分を捨て、新しい自分に生まれ変わることを意味する。


これまでの生き方を変える、つまり180度の方向転換をするということだ。


死んだらおしまいという考えではなく、この世で死んでも永遠のいのちがあることを信じる、ということだ。


それこそが、私たちがこの世で生きる上で、益である、得であると思えることではないだろうか。

祈りと賛美

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あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。


ヤコブの手紙 5:13


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祈りと賛美。


どちらも欠かせないもの。


私は決して積極的に祈りを実践している者ではないが、それでも祈りが持つパワーを信じる。


苦しみの中にあるときは、特に祈らずにはいられない。


身体の痛み、心の痛み。苦しみは、大きなものから小さなものまでたくさんある。


小さな苦しみにはインスタントな祈りを、大きな苦しみには継続的な祈りをささげる。


私は偏頭痛持ちだから、頭がしくしく痛んでくると、癒しの祈りをささげる。


また、先だって痛風になってしまい、決して小さな痛みではなくて、だから痛みが去るように祈った。


心の痛みは、書ききれない...。仕事でもプライベートでもよくあるし、その大半は人間関係についてだったりする。


そうすると、祈りの種類は私ではない他者のためのとりなしの祈りとなる。


自分のための祈りと、他者のためのとりなしの祈り。どちらも大切。


けれど、とりなしの祈りは自分の心を浄化し、穏やかさを保たせてくれる。


他の誰かのために祈ること、いいものだ。



喜びのときに賛美する。


これは苦しみのときの祈りよりも容易く思えるかもしれない。


ところが、だ。


何かいいことがある、例えば、ずっと追いかけていた案件がようやく受注できたとき、なかなか話してくれなかったお客さんが心を開いてくれたとき。


そんなときは嬉しくて、もうぜんぶ自分の手柄みたいに勝ち誇って、祈ることなんてすっかり忘れてしまう。


喜びのときに感謝して祈ること、そして賛美すること。


意識してなければ忘れてしまうのだ。



この手紙を書いたヤコブは、イエスの弟で、イエスが生きているときはイエスの神性を受け入れられなかった。


しかし、イエスの十字架と復活を通して改心した。


そのヤコブが、苦しいときに祈り、喜びのときに賛美しようと奨励している。


日々の生活の中で、祈りや賛美は特別なものではなくて、もっと当たり前の普通のことでいいんだと思う。


苦しいからこそ祈り、乗り越えられない試練は与えられないことを教えられ、慰められ、そして癒される。


また、与えられた喜びは、独り占めするのではなく、感謝をもって賛美する。


信じなかったヤコブが、信じて祈り、信じて賛美したように、私たちも祈り、賛美する。


これが神に栄光を帰す、ということだ。

 

神の武具

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悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。


エペソ人への手紙 6:11


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悪の存在は、クリスチャンになって知った。


そして、クリスチャンになると、さらに強い攻撃に晒されることも知った。


見た目に恐ろしい人が目の前に現れて攻めてくるとか、そういうことではなく、ときに同僚や友人を通して、あるいは自分の心の中に忍び寄る声として現れる。


そんなときどうしたらいいのか。


悪の策略(devil's scheme…スキームって枠組みという意味だが、陰謀なんて意味もある)に打ち勝つにはどうしたらいいか。


その答えがエペソ6章に綴られている。


神の武具を身に着けることだ。



神の武具は全部で6種類ある。


当時のローマ兵の武具に見立てて、帯、胸当て、履物、盾、兜、剣の6つである。


まず最初に、真理の帯を締める。


悪魔は、嘘偽りを持って私たちを崩そうとする。崩れないために、体の中心である腰に真理の帯 ベルトを締めるのだ。


自分の胸に手を当てるのは、正直に考えたり、忠誠を誓ったりするときだ。胸当ては正義である。


真理の帯と正義の胸当てを付けた私たちは、平和の福音を告げ知らせるために一歩踏み出す。だから、履物は平和である。



防御の武具は2つ。


1つは盾。ローマの重装歩兵は四角形の大きな盾、スクトゥムを持っていた。この盾を複数人で密集させ攻撃を防いだ。


私たちクリスチャンにとっての盾は、信仰である。信仰によって、悪魔の攻撃を防ぐ。


もう1つは兜。ローマ兵の兜には防具としての役割以外に、装飾や羽根が付いていることからも、自らの存在や役職をアピールする意味もあった。


映画などで、百人隊長の兜に派手な羽根が孔雀のように広がっているのを見るが、あれは自己顕示ではないかと思う。


ではクリスチャンの兜は何かと言えば、それは救いである。救われた者としていただく兜、兜というよりは冠を戴く方がイメージとしてはいい。


最後が攻撃の武具。


クリスチャンの最大の攻撃ツールは、聖書のみことばを置いて他にない。


荒野で悪魔の誘惑を受けられたイエスは、三度ともみことばをもって悪魔を退けた。同じように、私たちもまたみことばをもって勇敢に戦う。


神の武具を身に着けよう。