あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。
ヤコブの手紙 5:13
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祈りと賛美。
どちらも欠かせないもの。
私は決して積極的に祈りを実践している者ではないが、それでも祈りが持つパワーを信じる。
苦しみの中にあるときは、特に祈らずにはいられない。
身体の痛み、心の痛み。苦しみは、大きなものから小さなものまでたくさんある。
小さな苦しみにはインスタントな祈りを、大きな苦しみには継続的な祈りをささげる。
私は偏頭痛持ちだから、頭がしくしく痛んでくると、癒しの祈りをささげる。
また、先だって痛風になってしまい、決して小さな痛みではなくて、だから痛みが去るように祈った。
心の痛みは、書ききれない...。仕事でもプライベートでもよくあるし、その大半は人間関係についてだったりする。
そうすると、祈りの種類は私ではない他者のためのとりなしの祈りとなる。
自分のための祈りと、他者のためのとりなしの祈り。どちらも大切。
けれど、とりなしの祈りは自分の心を浄化し、穏やかさを保たせてくれる。
他の誰かのために祈ること、いいものだ。
*
喜びのときに賛美する。
これは苦しみのときの祈りよりも容易く思えるかもしれない。
ところが、だ。
何かいいことがある、例えば、ずっと追いかけていた案件がようやく受注できたとき、なかなか話してくれなかったお客さんが心を開いてくれたとき。
そんなときは嬉しくて、もうぜんぶ自分の手柄みたいに勝ち誇って、祈ることなんてすっかり忘れてしまう。
喜びのときに感謝して祈ること、そして賛美すること。
意識してなければ忘れてしまうのだ。
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この手紙を書いたヤコブは、イエスの弟で、イエスが生きているときはイエスの神性を受け入れられなかった。
しかし、イエスの十字架と復活を通して改心した。
そのヤコブが、苦しいときに祈り、喜びのときに賛美しようと奨励している。
日々の生活の中で、祈りや賛美は特別なものではなくて、もっと当たり前の普通のことでいいんだと思う。
苦しいからこそ祈り、乗り越えられない試練は与えられないことを教えられ、慰められ、そして癒される。
また、与えられた喜びは、独り占めするのではなく、感謝をもって賛美する。
信じなかったヤコブが、信じて祈り、信じて賛美したように、私たちも祈り、賛美する。
これが神に栄光を帰す、ということだ。