聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

損と得

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人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。


マルコの福音書 8:36


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この聖句は、以前の日本語訳(口語訳)では「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」となっている。


儲けるとか、損とか得とか、直接的な表現が特徴的である。


世界を儲けるって、億万長者みたいなイメージがある。でも、そうではなくて、自分の思い通りに生きていくことを指している。


欲にまかせて、やりたいように好き放題に生きたとしても、命を絶たれたらそれでおしまいじゃないか、そしたらいったい何が残るというのだ。


私も20代の頃、そうやってうそぶいていた。


生きた痕跡や生きた証を、どうしても残さなきゃならないという理由はないけど、残された者には、先立った者とのいろいろな記憶が残る。


その記憶がいいものであれば、世界はもっと良くなる。


どう生きるかよりも、どう死ぬか、だ。


今はそう思う。



何年か前に亡くなった母方の祖母は、生前「死んだらおしまいや」が口癖だった。


だからといって、放縦な人生を歩んだのかといえばそんなことはまったくなく、むしろ真逆で、10代で嫁ぐと、祖父の家は10人以上が住む大所帯で、毎日メシの世話を必死でするだけだった、と聞いたことがある。


母を含む3人の娘を育てそれぞれ婚家に送り出し、祖父には先立たれ、姑である曾祖母を看取り、晩年は何のとらわれもない自由な生活を送っていた。


アルコールの摂取が過ぎたのか、最後はやせ細って、そして、亡くなった。


祖母のもう1つの口癖が「しゃあないて」だった。


フランス語のケセラセラ、韓国語のケンチャナヨ、英語ではなんて言うんだろう、I have no choiceとか、That's lifeとかかな。


どれほど困難なことがあっても、「まぁ、しゃあないて」といって何度も乗り越えてきたのであろう。私も受験に失敗したときや、酷いアトピーで自暴自棄になったとき、いろいろな場面で祖母に「しゃあないて」と励まされてきた。


仕方がないと言って苦難を乗り越えるのは、無念さや諦めのように思えるが、実はそうではない。


そうではなくて、現実をそのまま受け入れるということなのだ。自分の力では如何ともしがたい現実、変えられない現実を、そのままに受け入れる。それが「しゃあないて」に込められた思いなんだろう。



エスは、仕方ないとは言わない。


なぜなら私たちが生きている価値は確実にあるし、生かされている意味もあるからである。


その価値や意味を教えてくれるのが聖書であり、イエスのことば、存在である。


私たちは神を知り、イエスに従うと決心したときに救われる。


信仰を告白し、クリスチャンとして歩む。


洗礼の儀式は水を通過するが、それは古い自分を捨て、新しい自分に生まれ変わることを意味する。


これまでの生き方を変える、つまり180度の方向転換をするということだ。


死んだらおしまいという考えではなく、この世で死んでも永遠のいのちがあることを信じる、ということだ。


それこそが、私たちがこの世で生きる上で、益である、得であると思えることではないだろうか。