木には望みがある。
たとえ切られても、また芽を出し
その若枝は絶えることがない。
ヨブ記 14:7
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ヨブ記。
これまでほとんど取り上げたことがないような気がする。
長い上に、難解この上ない。
神に祝福されたヨブが、神への信頼を失い、神を憎む。
でも最後には神への信頼を回復し、再び神からの祝福を受ける、とそんなストーリー。
で、そのヨブが、神への恨みつらみを述べているのが今日取り上げた聖句である。
これは対句になっていて、こう続く。
「人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか」と。
木には望みがあるが、人は死んだらおしまいだと。
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ヨブはアブラハムと同時代に生きた人と言われていて、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けてきたと書かれている。
さらに、ヨブはお金持ちで、羊七千匹、らくだ三千頭を持ち、子どもも十人いて、幸せに暮らしていた。
そんなヨブが何故、ここまで神を恨んだのかというと、一度にさまざまな不幸な出来事が起きたからである。
家畜を失い、子どもたちを失い、そのうえ、全身ひどい皮膚病になって、体中かきむしって苦しみ嘆く生活を送るようになった。
それでも、最初のうちは「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言っていた。
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苦しみを与えられたとき、不幸もまた受け入れようと思えるうちは、まだ余裕があるということだ。
しかしヨブは徐々に変貌し、遂には神を呪った。
人は死んだらおしまいだが、木は切られても芽を出し若枝は絶えない。木には望みがある、と神を恨んだ。
この木と人の対句法であるが…ハッとした。重要な気付きを得た。
木と人との対比に、木に架けられたキリストを見た。
十字架につけられたキリストは、死んで、そして復活した。切られても芽を出した。復活して今も生きている、若枝は絶えないのだ。
木には望みがある、キリストのことを暗示していたんだ。
最後にヨブは神に立ち返り、再び祝福を得たように、私たちもまた苦しみの中にあって、神を恨むようなことがあったとしても、復活のキリストを信じることで、再び恵みを得るのだ。
ヨブ記にこんな大きな喜びがあったなんて!