聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

ニーズ探索

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また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
 
ピリピ人への手紙 4:19
 
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顧客ニーズを常に考えている。
 
たまに若手営業マンと同行すると、商談後に「今のお客さんのニーズってなんだろうね?」と問い掛ける。
 
すると「A商品よりもB商品の方がいいような気がしました」という回答が返ってくる。
 
それはニーズではなくウォンツだよな…と思いつつ「どうしてそう思うの?」とさらに問うてみる。
 
するとしばらく考えて「Aはスペックとか価格面で見合わないけど、Bならちょうどいいと思います」という回答が返ってくる。
 
あぁ、まだニーズまで到達できていない。
 
この後さらに「スペックや価格さえ適切ならAでも購入するのか?」「スペックや価格で決めるなら競合他社のC商品でもいいことになるよね?」「他の理由は何かないだろうか?」
 
と何回かやり取りが続く。
 

 
このようにニーズというのは実は難しい。
 
というか、分からない。
 
日本語にすれば「必要」となるが、そうすると余計に難しくなる。なぜなら「何が必要ですか?」と聞かれたら「あれとか、これとか、それとか」と、モノを示すだろう。
 
それだと若手営業マンと同じウォンツなのだ。
 
ウォンツを引き起こす要因になっているのがニーズ。しかし、それは見えにくい。
 
たとえば、クルマ屋で新車を物色しているお客に対して、店員が「どんなクルマをお探しですか?」と言って近付いて「こちらのクルマは装備が、機能が、価格が…」と話したとする。
 
これでは、顧客ニーズを理解することはできない。
 
ニーズを探ろうと思うなら、いま乗っているクルマのことや乗り換えようとしている理由を聞くことが先決だ。車検が近いとか10年乗ったという理由があるかもしれない。あるいは親の介護や子どもが生まれたというライフステージの変化が理由かもしれない。
 
そういったところまで掘り下げて、表面には出てこない本当のニーズにようやく辿り着くことができる。
 

 
このようなニーズ探索は営業にとって楽しいことである。探り当てたときの嬉しさは格別だし、分かり合えたことでラポール形成になるし、結果として売上にも繋がる。
 
さて、私たちの神さまは、私たちのニーズをご存知であるか?
 
答えはもちろんYES、である。しかも、すべてご存知なのである。
 
あれこれ質問をされて掘り下げられることもなく、ラポール形成もなく、本当のニーズを知っておられる。
 
口に出さずとも、その前から既に知り抜いておられる。本人が気付かないことだってご存知なのが神さまである。
 
旧約聖書詩篇139篇にこう書いてある。
 
主よ、あなたは私を探り知っておられます。
あなたは私の座るのも立つのも知っておられ
遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ
あなたはそのすべてを知っておられます。
 
これを確信するか。
 
確信、それが信仰である。
 

敬天愛人

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エスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、 知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」

マタイの福音書 22:37

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敬天愛人

天を敬い人を愛す。クリスチャンがなんの前知識もなくこの言葉を知ったら、ほぼ間違いなくキリスト教的な四字熟語だと思うだろう 。

たしかにそれは正しい。しかし、これが幕末の英傑、西郷隆盛の言葉と知ったら驚くのではないか。

西郷どんはクリスチャンなのか?

クリスチャンかどうか、洗礼を受けたのかどうか、こうしたことは定かではないらしい。それでも文献を読むと、西郷が聖書に触れていたことは間違いのないことではあるし、実は洗礼を受けていたとか、聖書を教えていたとか言う証言もあるようだ。

そんな話が150年が経った今でもあること自体、西郷とキリスト教の深い関わりが事実であったと思わずにはおれない。

出張で鹿児島に来たことで、土地がそうさせるのか、単なる個人的な興味なのか、幕末に俄然興味が湧いて、宿泊先のホテルで戊辰戦争西南戦争について調べたり、動画を観たりしている。

たしか以前、会津に行ったときも、ちょうど「八重の桜」放映でブ ームだったこともあってか、幕末にタイムスリップしていたことを思い出す。単に自分が状況に流されやすい性質だからなのかもしれ ない。

会津と薩摩の今の関係はどうなのか。袂を分かったまま相容れない状態であるのか...。歴史を紐解けば、許しがたいこともあり、 以前のような関係に戻ることは難しいのかもしれない。

しかし、八重の兄である山本覚馬の構想に西郷が感銘を受けたというエピソードからも繋がりはあったことが分かるし、なんといっても八重も西郷もキリスト教信仰に触れているのであるから、「汝の敵を愛せよ」は心に刻んでいたはずである。

西郷の言葉「敬天愛人」で言う「天」であるが、なんとなく日本人的には、見えざる偉大なる存在(力)のようにスピリチュアルに理解しようとするだろう。

だが、それは西郷の本意ではないはずだ。

この「天」は意思を持った存在として、私たち「人」を愛する方である。私たちが天を敬い人を愛するのは、天である神が私たちを愛していることが根底にある。

そして私たちもまた、無条件の神の愛に応答して、神を愛するのだ 。

その先に、人を愛すること、そして敵を愛することができるのだと思う。

1877年2月15日、西南戦争が勃発した日に鹿児島にて、幕末に想いを馳せる。

 

輝ける存在

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このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
 
マタイの福音書 5:16
 
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いつもは聖句を読むと、自分に適用して考える。
 
しかし、今日の聖句を読んだときは違った。先週カナダに留学に行った娘のことが浮かんだ。
 
生活に適用するわけでも、自分に適用するわけでもなく、娘を思いながら綴る、今日はそんな内容になる。
 
半月前に16才になった高1の娘は「高校生のうちに海外留学する」という夢を叶えてカナダに飛び立った。
 
学校での選抜試験(プレゼンとか校長面接とか)をくぐり抜け、募集人数2名のうちの1枠を獲得した。「行きたい」という想いを前面にPRして、自分の手でもぎ取った海外留学切符。我が子ながらたいしたもんだと感心する。
 
英語の成績は決して上位ではないし、通知表の結果を見ても「2がなくてよかったね」というレベル。
 
私たち親はこのためによく祈った。
 
もちろん祈るだけでなく、プレゼン用の英語原稿を一緒に作ったり、校長面接の対策を練ったり、親としてできるだけのことを施した。
 
でも最終的に、娘自身の想いの強さ(それは学力の高さとは比例しない)が奏功し、さらに、神さまが備えてくださる道を信じ委ねたからこそ成し得たのだと思う。
 

 
エスが「あなたがたの光を輝かせなさい」と命じる。
 
そう言われて、私たちはどういう反応をするだろう。
 
2通りの反応が考えられる。
 
1つは「いやいや私には誇れるものなんてないですよ。だから人前で輝くなんてとてもムリです」と、謙遜しつつも自分を卑下する反応。
 
もう1つは「わかりました。立派に光らせます、輝いてみせます」と、命令に従順に、努力を宣言する反応。
 
どちらだろうか…。
 
実は2つとも違う。というより、ピントがズレている。ともに「自分には光がない」「いまの自分は光っていない」という前提に立っているからだ。
 

 
今日の聖句の少し前を読むと、イエスはハッキリと  「あなたがたは世の光である」と言っている。
 
エスは「光になりなさい」と命じているのではなく 「あなたがたはこの世に生まれた瞬間から光なのですよ」と言っている。
 
つまり、私たちは光として 必ず誰かを照らし、誰かを支える存在として生まれてきたのである。卑下することも努力することもなく、ありのままで輝ける存在なのだ。
 
娘は小学生のときに洗礼を授かった。神は娘の歩みを支え、進むべき道を示してくださった。
 
中学生のときは陰湿なイジメにあって辛い思いをした。それでも娘は誰かを恨んだりすることなく輝きは失わなかった。高校受験では第一志望に合格できず、失意の中に突き落とされもした。それでも娘は腐ることなく、いまの学校に通い始めあっという間に馴染んだ。
 
よき友だちに恵まれ、いつも真昼のように輝いている。そんな娘の歩みを見て、親である私たちが、より神をあがめ、神に栄光を帰すのである。
 
私たちは誰もが世の光、輝ける存在である。
 

アーメン。

 


 

渇望する

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そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主を呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えてくださいました。しかし今、私は喉が渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています」
 
士師記 15:18
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
え、ここですか?
 
という箇所を用いて礼拝説教を始めたのは、教会で中高生会をリードしている伝道チームの20代のリーダーであった。
 
士師記に出てくるサムソンは確かに英雄である。しかし、聖書には野蛮で下品で色狂なサムソンがこれでもかと描かれている。私たちにとってはむしろ反面教師なのだ。
 
サムソンの物語は「誕生・謎解き・撲殺・神殿倒壊」の4パートに分かれるが、今日の聖句は第3パートにあたる。
 
イスラエルの敵であるペリシテ人1000人を、ロバのあご骨1本で打ち殺したというトンデモナイ話。で、この凄惨な出来事のあと、サムソンはひどく喉が渇いたのである。
 
聖書に登場する幾多の人物の中で、水が欲しくて神を呼び求めたのはサムソンしかいない。
 
散々人を殺めておきなぎら喉が渇いた!と神を呼び求めるサムソンは、人間的には、なんて身勝手な男だと思うだろう。
 
しかし、神の目にはそう映らなかったのだ。
 

 
サムソンに渇望(死ぬほど喉が渇いていたのだから文字通り「渇望」である)された神は、なんと、ちゃんと応答したのである。
 
しかも即応したのだ。
 
聖書に「すると、神はレヒにあるくぼんだ地を裂かれたので、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復し生き返った」とある通りだ。
 
生き返るとは、聖書的には息を吹き返したという意味になる。
 
そう、それはまるで、土塊に神が息を吹きかけて最初の人間アダムが生まれたときのように、そして新約聖書では、イエスによって生ける神の水(つまり聖霊)が注がれた数々の奇跡と同じように、死にそうだったサムソンもまた息を吹き込まれ生き返ったのである。
 
アタマでわかっていても、それでもサムソンを救われた神の御心は理解に苦しむが、事実としてサムソンは救われたのだから、神の正しさや確かさを認めざるを得ない。
 

 
もう一度、聖句を読み返してみる。
 
すると、サムソンは「喉が乾いて死にそうだ」と自分の必要を訴える前に、まず「あなたは大きな救い(great victory)を与えてくれました」と神を褒めたたえているではないか。
 
なんということだ、サムソンの直情的で自分勝手な神への渇望に気を取られて、サムソンが神に栄光を帰していたことをすっかり読み落としていた。
 
ここで出エジプト記イスラエルの民のことを思い出す。
 
エジプトから脱出し、荒野を旅していたイスラエルの民は、たびたびモーセに不平不満をぶちまけた。
 
たとえば、出エジプト記17章には野営地に飲み水がなかったことに怒った民が「いったいなぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を渇きで死なせるためか」と、モーセに詰め寄った場面がある。
 
彼らはエジプトでの苦役から救い出されたことも、有名な十の災いから逃れたことも、そして追いかけてくるエジプト兵を滅ぼすために神が海を二つに割ったことも、そのように神がしてくださった数々の救いの業をいったん脇に置いやって、挙句「飲む水を与えよ」と文句を言ったのだ。
 
サムソンはロバのあごの骨でペリシテ人を殺めた後で、もちろん蛮行だから褒められる行為ではないのだが、それでも自分が神によって大きな救いを得たことをまず告白している。ここにサムソンのへりくだりと信仰を見る。
 
わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。
(イザヤ57:15)


渇きを覚え神を呼び求めることで、神は私たちの必要を満たしてくださる。
 
これが今日の結論である。
 
 

誇らない

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だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。
 
コリント人への手紙 第一  3:18
 
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自分は知恵ある者だと思うこと。
 
これは自惚れであり、自分を誇ることである。この性質は誰もが宿しているのではないか。
 
少しでも人に勝るところがあれば、それは知識に限らず、見た目の良さや体力などにおいてもそうであるが、誇らしげになるものだ。
 
今日の聖句で使徒パウロは、知恵ある者になるためには愚かになりなさい、と語る。
 
このパラドクスはパウロ自身が身をもって体験したことであり、経験から導き出した真理である。
 
誰よりも強くなりたければ誰よりも弱い者であること。誰よりも偉くなりたければ誰よりも低い者であること。
 
聖書を読めばパウロがどれほどの経験をしたかが綴られているし、サーバントリーダーを説いたイエス自身も自らの生き方を通してこのことを示された。
 

 
自らを誇ることの罪について、パウロは別の箇所でこう述べている。
 
私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。
(第二コリント10:13)
 
割り当ててくださった限度内で誇るって、やや皮肉っぽい表現だなと思う。
 
つまりは、身の丈で誇るということではないか。
 
身の丈に合った自惚れ、これぞまさに愚か者の代表みたいなものではないか。
 
でもそれくらいでちょうどいいのかもしれない。
 

 
旧約聖書から二箇所引用する。
 
パウロの皮肉もなければ、イエスの解釈もない。よって、ストレートに刺さる。そして厳しい。
 
誇り高ぶる者たちは
御目の前に立つことはできません。
あなたは不法を行う者をすべて憎まれます。
詩篇 5:5)
 
──主はこう言われる──
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
力ある者は自分の力を誇るな。
富ある者は自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。
悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主であり、
地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。
まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。
──主のことば。
(エレミヤ 9:23-24)
 
日本にも「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がある。驕り高ぶらない謙虚さは日本人の美徳でもある。
 
似ているようで実際は異なるわけだが、クリスチャンは単に自分を誇らない生き方を目指しているのではない。堂々と誇るべき存在を持っている。
 
愚かになることは怖くない。誇るなら主を誇ろう。
 

召しと交わり

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神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
 
コリント人への手紙 第一  1:9
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
召されるとか、交わるって、キリスト教用語だと思う。
 
言葉としては知っていたが、信者になるまで普段使いすることはなかった。
 
「召す」は「召し上がる、お召し物、(風邪などを)召される」のように、「食べる、飲む、着る」といった何かを身に受け入れるときに使用する敬語である。
 
しかし辞書を引くと、もう1つの意味があった。それは「(殿が)お召しです」のように、目上の者が呼び寄せるときの敬語であった。
 
聖書で「神に召される」と言うときは、こちらの意味だ。なるほど、つまり「召す」はキリスト教用語なのではなく、古語だから現代に馴染まないだけであった。
 
調べついでに「召」の漢字の成り立ちも見てみた。すると「刀+口」とあり、「刀」はもとは人が屈んだ姿を表し、後に神秘の力を持つ刀に転意した。そして「口」は祈りのこと、とあった。
 
やはり中国においても「召す」ことは神と人との関係で用いられたのだ。
 

 
私たちは誰もが神から召されて(calling)いる。つまり神から呼ばれている。手招きされている。
 
けれど、それに気が付かないだけ。
 
神の存在は一般啓示として、誰にでも示されている。旧約聖書詩篇を見てみよう。
 
天は神の栄光を語り告げ
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す
話しもせず語りもせずその声も聞こえない
しかしその光芒は全地に
そのことばは世界の果てまで届いた
神は天に太陽のために幕屋を設けられた。
詩篇 19:1-4)
 
神の創造、すなわち被造物(creature)を見れば、疑う余地なく神の意図を感じる。人間は何千年もかけて神の神秘(mystery)を見つけては科学的発見と言って自らの知恵を誇ってきた。
 
その知恵すら神から与えられた賜物であることをすっかり忘れて。
 

 
神からの召しに応じた人は、イエスとの交わりに加わる特権に預かる。
 
召しに応じるとは、呼ばれたら「はい」と手を挙げて返事をするということだ。
 
聖書では、預言者サムエルが召されたシーンが思い出される。第一サムエル記3章4節には、主はサムエルを呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と答えた、とある。
 
私たちも神に招かれたら「はい、ここにいます」と即答したいものだ。
 
エスとの交わり(fellowship)の最もわかりやすいのは、教会での礼拝に参加することだ。
 
礼拝参加を通して、聖書を読み、賛美を歌い、祈りに心を合わせる。こうした行為がイエスとの交わりである。
 
いまはコロナで教会での礼拝参加が難しいこともある。しかし、私たちは教会でなくとも、たとえばクルマで、電車で、会社で、寝室で、キッチンで、どんな場であっても、聖句を口にするそのときに、賛美を口ずさむそのときに、祈ろうと「天の父なる神さま…」と言うそのときに、交わりに加えられているのだ。
 
神の召しに応じて、交わりに加わる。そこに心の平安がある。
 

 

見えない望み

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私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
 
ローマ人への手紙 8:24
 
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「ローマ人への手紙」でパウロが展開している神学は難しい。
 
ある箇所を取り出してみても文脈を無視しての理解が難しい。仮に理解できたとしても、前後の文脈ナシで読めば誤った解釈をする危険がある。
 
しかし一方で、パウロがこの書簡においてキリスト教の神学を構築したおかげで、キリスト教世界宗教となり得たのも事実である。
 
いまの時代に私たちが聖書を読み、神を賛美し、信仰生活を送ることができているのも、ひとえにパウロのおかげと言ってよい。
 

 
正しい解釈はできないが、前後を読むことで少しでもパウロが語りたかったことが腹落ちしたらいい。
 
今回取り上げた24節を理解するために、少々長いが5節ほど遡ってみる。
 
(19)被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
 
(20)被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
 
(21)被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
 
(22)私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
 
(23)それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
 

 
いまの世に生きる私たちは、たとえ信仰を告白して救われたとしても、霊的に新しく生まれ変わるが、肉的には罪の性質を持ち続ける。
 
死はすべての人間に与えられている。
 
肉体は朽ちる、土に還る、と言うのと同じように「虚無に服す」「滅びの束縛」は、どちらも肉体の死を表している。
 
一方、「滅びの束縛からの解放」「からだの贖い」とは、朽ちることのない永遠の体、つまり復活の栄光の体のことである。
 
そして、それを待ち望むことこそが、24節で言う「目には見えない望み」ということだ。
 
(25)私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
 
望みを抱こう。