聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

輝ける存在

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このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
 
マタイの福音書 5:16
 
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いつもは聖句を読むと、自分に適用して考える。
 
しかし、今日の聖句を読んだときは違った。先週カナダに留学に行った娘のことが浮かんだ。
 
生活に適用するわけでも、自分に適用するわけでもなく、娘を思いながら綴る、今日はそんな内容になる。
 
半月前に16才になった高1の娘は「高校生のうちに海外留学する」という夢を叶えてカナダに飛び立った。
 
学校での選抜試験(プレゼンとか校長面接とか)をくぐり抜け、募集人数2名のうちの1枠を獲得した。「行きたい」という想いを前面にPRして、自分の手でもぎ取った海外留学切符。我が子ながらたいしたもんだと感心する。
 
英語の成績は決して上位ではないし、通知表の結果を見ても「2がなくてよかったね」というレベル。
 
私たち親はこのためによく祈った。
 
もちろん祈るだけでなく、プレゼン用の英語原稿を一緒に作ったり、校長面接の対策を練ったり、親としてできるだけのことを施した。
 
でも最終的に、娘自身の想いの強さ(それは学力の高さとは比例しない)が奏功し、さらに、神さまが備えてくださる道を信じ委ねたからこそ成し得たのだと思う。
 

 
エスが「あなたがたの光を輝かせなさい」と命じる。
 
そう言われて、私たちはどういう反応をするだろう。
 
2通りの反応が考えられる。
 
1つは「いやいや私には誇れるものなんてないですよ。だから人前で輝くなんてとてもムリです」と、謙遜しつつも自分を卑下する反応。
 
もう1つは「わかりました。立派に光らせます、輝いてみせます」と、命令に従順に、努力を宣言する反応。
 
どちらだろうか…。
 
実は2つとも違う。というより、ピントがズレている。ともに「自分には光がない」「いまの自分は光っていない」という前提に立っているからだ。
 

 
今日の聖句の少し前を読むと、イエスはハッキリと  「あなたがたは世の光である」と言っている。
 
エスは「光になりなさい」と命じているのではなく 「あなたがたはこの世に生まれた瞬間から光なのですよ」と言っている。
 
つまり、私たちは光として 必ず誰かを照らし、誰かを支える存在として生まれてきたのである。卑下することも努力することもなく、ありのままで輝ける存在なのだ。
 
娘は小学生のときに洗礼を授かった。神は娘の歩みを支え、進むべき道を示してくださった。
 
中学生のときは陰湿なイジメにあって辛い思いをした。それでも娘は誰かを恨んだりすることなく輝きは失わなかった。高校受験では第一志望に合格できず、失意の中に突き落とされもした。それでも娘は腐ることなく、いまの学校に通い始めあっという間に馴染んだ。
 
よき友だちに恵まれ、いつも真昼のように輝いている。そんな娘の歩みを見て、親である私たちが、より神をあがめ、神に栄光を帰すのである。
 
私たちは誰もが世の光、輝ける存在である。
 

アーメン。