聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

道・真理・いのち

f:id:songchi0326:20230419210641j:image

エスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
 
ヨハネ福音書 14:6
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
いきなり話が逸れるが、イエスが言う「彼」というのは、12使徒の1人トマスである。
 
先週はイースターだったから、復活のイエスについて書いたわけだが、トマスといえば、復活のイエスをすぐには信じることができなかった使徒である。
 
おかげで、疑い深いトマスという異名までつけられてしまったのだが、そこを引用しておこう。
 
…そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
ヨハネ 20:25)
 
疑い深いというか、現実主義者なんだと思う。それだけイエスを喪失したことの悲しみが大きかったとも言える。
 
現に、復活のイエスに会ったトマスはすぐさま「私の主、私の神よ」と信仰告白をしたのだ。
 
自分の目で見ないと信じることのできないトマスのことを、私たちは決して批判できない。
 

 
今日の聖句は、十字架にかかる直前、いわゆる最後の晩餐の場において、トマスが発した問いに対するイエスの返答である。
 
エスが弟子たちに「わたしがどこに行くのか、あなたたちはその道を知っています」というと、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねた、とある。
 
リアリストのトマスは、きっとリアルに、イエスがどの道を通っていくのか知りたいと思って聞いたのだろうと思う。
 
エスはそんなトマスのストレートな問いに対して、今日の聖句で返した。トマスはよくわからないまま口をつぐんだことであろう。
 
どの道を通って行くのですか?と聞いたら、わたしが道であると返されたのだから。
 

 
この聖句は英語の方がよく伝わると思うし、実際よく目にする。
 
I am the way and the truth and the life.
 
いろんな解釈があっていいと思うが、私はこうとらえている。
 
道とはイエスの教え、真実とは信仰、いのちは文字通りイエスの歩まれた人生そのもの。
 
私たちは、イエスの教えに聞き従い、信仰を持って応答し、恵みに満ちた豊かな人生を送ることができる。
 
なんて幸いなことだろう。
 
復活のイエスを疑ったトマスが「私の神、主よ」と信仰告白したように、私たちもまた「私の神、主よ」と告白しよう。
 
主よ、あなたの道を私に教えてください
私はあなたの真理のうちを歩みます
私の心を一つにしてください
御名を恐れるように
詩篇 86:11)
 

復活の主

f:id:songchi0326:20230412200651j:image

そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
 
コリント人への手紙 第一  15:14
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
イースターはキリストの復活を記念する日だ。
 
キリスト教は、イエスキリストが生まれたからではなく、死んだからでもなく、復活したからこそ世界宗教として成り立った。
 
生まれてそして死んだだけなら、復活しなかったら、それは救い主ではなくただの人間であり、結果、キリスト教はこの世に存在しなかった。
 
奇跡的な生まれ方をしたし、たくさんの奇跡や預言も行った。それでも死んだままであったら、それらすべては虚しいものである。
 
さらに、死んでもすぐに復活しなかったことも、あらぬ疑念を抱かせないという点で重要である。もし墓に葬られてすぐに復活したなら、実は死んでなかったのではないかと疑われたかもしれないか。だから、腐敗が始まる3日目まで復活しなかった。
 
死んでから3日目、イエスキリストは自らが預言した通り、よみがえった。事実、イエスは生前「壊れた神殿を3日で建て直す」と、自らの死と復活を預言している。
 
わたしはよみがえりです、いのちです。
ヨハネ11:25)
 
復活の主を崇めます。
 

 
エスが十字架にかけられている場面で、私にとって印象的な言葉(というか罵言)がある。
 
それは「神殿を壊して3日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ 27:40)
である。
 
これはイエスを憎んでいた人が言ったのだろうか?
 
いや違う。
 
ただ十字架の前を通りすがっただけの人たちが、頭を振りながらイエスを罵り挑発したのである。
 
通りすがりはいえ「おまえが神の子なら」と言っているのだから、イエスを認識していたのだろう。
 
もしかしたら、イエスの存在によって職を失ったり、痛い目を見た連中なのかもしれない。だとしたら、野次馬として見物に来たついでに、嘲笑したのだろう。
 
なぜこの罵言が印象的かというと、私たちはこの人たちを責められないからである。言葉に出さないだけで、誰もが思ったはずである、自分を神と言うのならどうして自分を救おうとしないのか…と。
 
なにもこんな無様で哀れな姿を晒さなくてもいいではないか、私もそう思う。
 

 
しかし、驚くべきことに、それは神の御心であり計画であった。
 
旧約聖書でメシア預言と言われるイザヤ書53章には、こんな記述がある。
 
しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】の御心であった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】の御心は彼によって成し遂げられる。
(イザヤ53:10)
 
木に架けられて死ぬことは、当時、呪われた者の死に方であった。それもまた、計画であったとは、神さまは私たちが思いもよらない方法で、人類を救おうとされる。
 
今日の聖句でパウロが「キリストがよみがえらなかったら、私たちの宣教は虚しい」と言っているように、キリストの復活は私たちの信仰生活の根っこの部分を強く支える、キリスト教の最も重要な要素である。
 
復活し今も生きておられる主に感謝します。
 
 

異国での試練

f:id:songchi0326:20230405212059j:image

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
 
コリント人への手紙 第一  10:13
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
真夜中に電話が鳴った。
 
カナダに留学中の娘からだ。時計を見るとちょうど学校のランチタイムだった。何事かと思い電話に出ると、なんと泣いているではないか。
 
事情を聞いて納得した。いや、納得というより哀憐の気持ちであった。
 
簡単に記しておこう。
 
娘が日本を発って2ヶ月、ホストファミリーとの関係は良好だった。美味しい食事に暖かいベッド、必要ならクルマで送迎してくれたり、夜はリビングで映画を観て過ごしたりしていると聞いていたからだ。
 
ところが3月中旬くらいからだろうか、いくつかの些細な連絡の行き違いがあって、それから娘に対しての接し方が冷たくなり、メールの文面も素っ気なくなった。
 
その程度なら、一時的なものかもしれないし、こまめなコミュニケーションを心掛ければ改善できるのではないかと思うだろう。しかしそうならなかった。
 

 
1つ1つ具体的に記すことはしないが、ホストファミリーの態度に娘が心を痛め、結果としてホームステイ先を変更したいという気持ちになった。
 
現地には、Relationship Managerという、いわゆる私たちが親権を預けている方がいて、その方が娘と面談をしてくれた。
 
しかし、それで事態は収まらず、むしろ悪化してしまった。
 
なぜなら、彼女が娘の言い分を軽んじており、ホストファミリー寄りの態度を見せたからだ。相談した娘にしてみれば、それは裏切り行為に等しく、よって激しく失望させられたのだ。
 
それが冒頭の涙の電話だった。
 
私たちはそれを聞いて、娘に同情すると同時に、憤りを感じた。そして、受け入れ団体のMarketing Directorに直談判することにした。
 

 
これらは娘にとって、さらに私たちにとっても試練である。
 
まだ解決の道が開かれていないが、それでも諦めることなく打ち手を考えては動いている。そして備えの道が開かれることを祈っている。
 
娘には、今日取り上げたパウロの言葉を贈り、神さまにすべてを委ね、失望しないこと、希望を持ち続けることを伝えた。
 
私たちの神は、乗り越えられないような試練を与える方ではない。試練の先には必ず希望の光がある。
 
最後に、ペテロの言葉も覚えておこう。
 
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」
(ペテロの手紙 第一 5:7)

 

 

できること

f:id:songchi0326:20230330135241j:image

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

マルコの福音書 14:8


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・ +

釘隠しとマスコット。

鹿児島出張から帰ってきて、心に残ったもの。島津の偉業も西郷の 人気も知覧の凄惨さも、どれも印象深かったが、 歴史に学ぶと同時に、小さなものに目が留まった。

小さいもの。そして、その先にある作り手の気持ちに想いを馳せた 。

釘隠しを見たのは、鹿児島市北部の磯地区にある仙巌園。そこには 島津の殿様が滞在する御殿があり、御殿を見学しているときに意匠 を凝らしたさまざまな釘隠しを見た。
https://www.senganen.jp/experience/the-house/

釘隠しとは、読んで字の如く、柱に打ち付けた鍵のアタマを隠して 見映えをよくするためのものである。

しかし、釘を隠すという機能的な目的であれば、デザインはどうでも良いはずだ。仙巌園のそれらは、薩摩焼あり、金で覆ったものあり、蝙蝠デザインもあり、全12種類のどれも大変素晴らしい芸術作品であった。

ガイドの方の説明によれば、当代の有名な職人が手掛けたとのことだが、見上げなければ気が付かないパーツにあんなにこだわるなんて驚きしかない。

近付いてよく目を凝らさないとわからないレベルで繊細な細工がなされている。この小さな作品に作り手の意志というか意地を感じる 。

自分ができることを最大限に発揮したのであろう。

出張最終日には知覧まで足を伸ばした。

行きたかった特攻平和会館に行くことができた。鹿児島市内に滞在していたから、ここまで来られるとは思っていなかったが、なんとか時間を確保できてよかった。

ひとたび中に足を踏み入れると、もう言葉を発することができない 。写真、遺品、遺書の数々に胸が苦しくなる。心を打つのは、 直筆の遺書である。20才そこそこの若者が、 自国のためとはいえ、自らの命を賭すことになんの抵抗もなく「 征ってきます」「散ってきます」「撃ってきます」と書き、「 泣かないでください」「喜んでください」「祝ってください」 と願う。

今の時代から見れば、どうしてそんなに簡単に自分の命を捨てるのか?と、疑問が湧く。しかし、時代がそうさせたのだ。 もっと言うと、教育が若者を戦争に向かわせたのだ。

そこで、ふと変わった展示品に目が行った。

マスコット人形である。近所の知覧高等女学校の生徒が特攻隊員のために手作りしたものであった。 彼らはこのマスコットを胸に付け、または機体にぶら下げて飛び立 った。女学生たちは、1機1機飛んでいく特攻隊員を手を振って見 送るしかなかった。

わずか数日前に知覧に到着し、慌ただしく飛び去って行く。そして二度と戻らない特攻隊員のために、マスコット人形を作ることが、 彼女たちにできることであった。

マルコの福音書14章前半では、十字架に掛けられる前のイエスのもとに、ある女(ベタニア村のマリア)がやってきて、大変高価なナルドの香油をイエスに注いだことが記されている。

続きを読んでいくと、油を注いだ女に対して、周りの者が「何のために香油をこんなに無駄にしたのか!」と憤慨した、とある。

周囲に厳しく責め立てられた女に対して、イエスが掛けた言葉、それが今日の聖句である。

「彼女をするままにさせておきなさい」

「わたしのために良いことをしてくれたのです」

「彼女は自分にできることをしたのです」

こうして、イエスは女の行為を受け入れ、女にできることを、女の 好きなようにさせることを許された。

釘隠しの職人も、マスコット人形の女学生も、そして油を注いだマ リアも、自分ができることをした。

その行為は尊く、誰もそのことを非難することはできない。むしろ 、できるのにしないことこそ責められるべきなのではないか。

できることを、しよう。

どこででも

f:id:songchi0326:20230323074413j:image

そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。
 
テモテへの手紙 第一 2:8


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
昨年から教会で役員を務めている。
 
が、週末は学校に通っている関係で、礼拝は辛うじてYouTubeで視聴、役員会に至っては欠席が続いていた。
 
ずっと気にはしていたが、たまたま3月は春休みで時間が取れたから、久しぶりに役員会に出席することができた。
 
役員会では冒頭に聖書輪読がある。
 
今回取り上げた聖句は、輪読でちょうど私が読んだ箇所である。なんというか、必要なときに必要な聖句が与えられたことに、驚き、少し戸惑い、そして感謝したのであった。
 

 
この聖句を声に出して読みながら感じたこと。それは、表面的に読むと「怒らない」「言い争わない」といった、戒めの表現に心を奪われてしまうということ。
 
〜してはならない、という禁止の命令形は、人の思考をネガティブな状態に縛り付ける。
 
現に、有名なモーセ十戒では「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない」と禁止の命令形で畳み掛けてくる。
 
十戒の前で我々は実に無力である。
 
しかし、この聖句での強調点は、禁止の命令形ではなく、その直後にある「どこででも」にある。
 

 
英訳を見るとそれは明らかだ。
 
I want the men everywhere to pray, lifting up holy hands without anger or disputing.
 
アタマから直読直解で訳すと「私(パウロ)はどこででも祈ってほしいのだ、清い手を掲げて、怒ったり言い争ったりすることなく」となる。
 
逆に言うと、怒ったり言い争ったりすると、どこででも祈るなんて到底ムリなのである。祈りとは、心を神に向けて、神と対話すること。
 
なのに、日々の由無しごとに気を取られて、神にピントが合ってない、対話するにも上手くチューニングが合っていない、そんな最近であった。
 
どこででも祈る。
 
いまこの聖句が示されてよかった。

不安への対処

f:id:songchi0326:20230316073442j:image

それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。
 
ルカの福音書 12:7
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
不安や恐れってどこから来るのだろう。
 
1 on 1で部下から「不安です」と吐露され、いささか躊躇した。医者じゃないからその場で適切な処方箋など出せる訳がない。
 
傾聴スキルと言うと3つの段階があり、第1段階が相槌、次がオウム返し、第3段階が言い換えである。そして、最も難易度が高いのは、もちろん言い換えである。
 
言葉として表面化したことを言い換えてみる。
 
例えば、商談がうまくいかないと相談されたとする。質問力を駆使しながら相槌やオウム返しで事象の裏に潜む感情を知ろうとする。そして、オンライン商談で雑談することに不安を抱えていることを突き止めたとする。
 
オンラインで雑談するって難しいし、できないと不安だよね、と感情を汲み取り、適切に言い換えできるかもしれない。


結果や行動から感情を探り当てることは難しいけど、経験を積めばなんとかできる。
 

 
しかし、その逆、表面化した言葉が感情そのものであると、ぐっと難易度が高まる。
 
その感情を巻き起こした原因はどんな行動なのだろうかと探っても、複合的だったり、本人も自覚していなかったりでなかなか困難である。
 
特に不安感情は、具体的な行動や結果が伴っているとは限らない。ただなんとなくざわざわするということだってある。
 
そもそも不安の原因ってなんだろう、とか。
 
ところで、自分が不安になるのはどんなときかと思い巡らす、身体の調子が悪いときが真っ先に浮かぶ。
 
睡眠不足だったり、偏頭痛がひどかったときなどは、心がざわついてなんとなく不安な気持ちになる。今年みたいに花粉症が酷いと不安を通り越して自分は大丈夫か?と恐れさえ感じる。
 

 
上述の部下であるが、探り当てた不安の原因は「生活」であった。
 
持ち家がほしいがローンが組めないという経済的な理由から、家族との関わりが難しいといった対人関係、さらには仕事そのものに意義を感じないとか。
 
掘れば掘るほど出てきて、触れてはならないパンドラの箱を開けてしまったような後悔を覚えた。
 
聞いてしまった私が逆に不安になってしまうほどであった。自分は上司としてこの部下と向き合っていけるのだろうか…。
 
What would Jesus do?
 
エスはそんな私たちを憐れみ、神がいかに素晴らしい方であるかを教えてくださる。
 
髪の毛の1本まで数えてくれるって、どんだけ自分のことを知ってくれているのか。いや、そもそも自分だって髪の毛が何本あるかなんて分からないではないか。
 
生活に不安があっても、対人関係に不安があっても、仕事に不安があっても(そんなのぜんぶあるよー!と叫びたいけど)、不安も恐れも全部神が引き受けてくださるのだ。
 

神さま、不安でつぶれそうです。助けてください、主よ。いまあなたの助けが必要です。そう祈ろう。


恐れなくていい、あなたは価値ある存在なのだから。そう言ってくださる方、信じるに値する。

安らぎを得る

f:id:songchi0326:20230301225042j:image

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
 
マタイの福音書11:29
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
新しい部署を率いて半年が過ぎた。
 
先日、部下と評価面談をしたが、部署発足時に立てた目標が曖昧だったため難航した。
 
営業しか経験のない私にとって、マーケティング部門の目標設定は難儀であった。なんとか設定はしたものの、それが適切であるか不安であった。
 
新部署は、部下もまた同じであるから、何が正解かなんて誰もわからないまま、何を目指すかお互いよくわからないまま半年走り続けてしまった。
 
半年経って、振り返って、期初に設定した目標の妥当性を自らに問う。改善点はなんとか見えてきた。
 
だが、行く先を明確に示さないまま走らせてしまったことや、曖昧さをクリアにしないままタスクをこなすことだけに目を向けさせてしまったことは、リーダーとして不合格だと思う。
 
自分がこんなに優柔不断で悩んでばかりで、決めごとがなかなか定まらず、指摘されてはうろたえ、右往左往するなんて想像しなかった。
 

 
そんなこんなでテンションがやや下がり気味であるが、そんなときは詩篇を読んだり、イエスの言葉を辿ったりするに限る。
 
思えば15年前の今ごろ、仕事が上手くいかなくて割とドン底を這っていたことがある。
 
失注ばかりで目標未達が続き、営業部長からは厳しく詰められた。帰るときには日付が変わっていることも多く、心も身体も限界に近かった。
 
生まれたばかりの娘と妻とで東京に引っ越して間もない頃だったこともあり、なんとか生活を軌道に乗せなければと気張っていたのだが、ムリだった。
 
そんなときこの聖句に触れた。
 
それは私がクリスチャンになろうと決断したときの聖句であり、今日の聖句の直前の箇所である。
 
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:28)
 

 
わたしのところに来なさい、休ませてあげるから。
 
そうして手を広げて招いてくださるイエスの懐に、私は自らを解き放ち、全身の力を抜いて、依り頼んだ。
 
どうしてイエスの懐で安らぎを得ることができるのか?
 
その理由が今日の聖句にある。
 
エスは心が柔和でへりくだっているから、である。gentle & humbleなのだ。柔和とは優しさであり、へりくだりとは慎ましさである。イエスに依り頼むことで、イエスの優しさと慎ましさに触れる。
 
優しさと慎ましさはイエスの性質であるが、それはすなわち愛である。
 
あのとき私はイエスの愛に触れ、たましいの安らぎを得て、救われたのだ。
 
そして今回もまた、無条件で愛してくださるイエスの懐に、私は依り頼む。優しさと慎ましさを纏い、安らぎを得る。
 
立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。
(イザヤ30:15)