聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

種-神のことば

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涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。

詩篇 126:5

Those who sow with tears will reap with songs of joy.

Psalm 126:5

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聖書で「種」といえば、神の「ことば」を表す。

エスキリストはいろいろな例えを用いて語るのだが、それは神の真理をわかりやすく伝えるためである。

その1つに「種まく人のたとえ」がある。

種まきといっても日本のように土の中に置いて行くのではなく、ミレーの絵にあるように、腰に巻き付けた布袋から種を手につかみ土の上に振りまく、あのイメージである。

エスの例えでは、種が落ちる場所とその結末が4パターン示されている。

(1) 種が道端に落ちると、鳥が来て食べてしまう
(2) 種が土の少ない岩地に落ちると、芽が出ても根付かずに枯れてしまう
(3) 種が茨の中に落ちると、芽が出ても身を結ばない
(4) 種が良い地に落ちると、芽生え育ち豊かな実を結ぶ

この例えに対して、イエス自身が解説しており、そこで「種蒔く人は、みことばを蒔くのです(マルコ4:14)」と、種=神のことばであることがわかる。

種、つまり神のことばが私たちの心にまかれる。

そのときの私たちの心はどの状態であろうか。喜んで受け取っているだろうか。それとも悲しさや苦しみを抱きながらだろうか。

マルコ4章には、イエスによる詳しい解説があるからここでは触れない。

「種まく人のたとえ」では、種をまく人が神で、まかれる土地が私たちと設定されている。

それを踏まえつつ、今日の聖句に照らしてみる。詩篇126:5は「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」とある。

ここで、涙とともに種をまく人を神ではなく、神がまかれたことばを受け取る自分とする。喜び叫びながら刈り取るのも自分とする。

そして、これまでの自分の歩みにおいて、涙とともにみことばを受け取ったときのことを思い出す。

健康を損ね療養しているとき、マタイ11:28を受け取って、救われた。

仕事を失い生きる気力を無くしているとき、第一コリント10:13を受け取って、救われた。

健康も仕事も、失ってその大切さに気付く。

もちろん、健康を損ねれば病院に行くし、仕事を失えばハローワークに行く。そこで出される薬や求人票によって失ったものを取り戻す。

しかし、神のことばという処方箋は失った人生そのものを取り戻すとてつもない力を持っている。生き方を180度方向転換させるほどの力を持っている。

その恵みに触れたとき、私たちは喜んで刈り取りのときを迎える。それが祝福である。

最後にパウロの言葉で締めたい。

Rejoice always. 受け取った種を実らせるための私たちの態度である。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ 5:16-18)

ザカリアの預言

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主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。

ルカの福音書 1:74

…to rescue us from the hand of our enemies,and to enable us to serve him without fear.

Luke 1:74
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ルカ1章を読み終えた。

最後は祭司ザカリアの賛美(預言)で締め括られている。

1章の書き始めには「ユダヤの王ヘロデの時代にアビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた(1:5)」とあるから、ザカリアに始まりザカリアに終わるのがルカ1章、ということになる。

ザカリアの話に挟まれているのが、マリアの受胎告知と賛歌であり、ザカリアの妻であるエリサベツを尋ねることであり、エリサベツの賛歌であり、バプテスマのヨハネが誕生したことである。

ヨハネが誕生すると「ザカリアの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた(ルカ1:64)」。

そしてザカリアによる神への賛美へと繋がる。

この構成と内容に、著者ルカの医者としての描写力や記述力が発揮されている。

明らかに記録として、歴史として残そうとする意思が感じられる。

「私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています(1:1)」とあるように、ルカが福音書を書く以前に、すでに多くの人がイエスのことを記したり、話したりしていた。

ルカによれば「すべてのことを初めから綿密に調べて(1:3)」いるのだから、この福音書は時系列に沿って丁寧に描かれていると信じてよい。

1章にはイエスが誕生する前の話が記されている。いわゆる序章である。

しかし、序章にもかかわらず登場人物はみな重要だし、みな聖霊に満たされ賛美しているし、序章だからと軽んじることはまったくできない。むしろドラマチックな展開にすら思える。

この序章を経て、2章では、イエスが馬小屋で誕生する、クリスマス礼拝で子どもたちがページェント(演劇)でよく演じるあの場面に進んでいく。

ルカ1章を読み終えて心に残ったのは、最後のザカリアの預言で語られた今日の聖句であった。

…敵から救い出される。恐れを取り去られる。主に仕えさせてくださる。

恐れの感情はすべてが悪ではなく、神に対する正しい恐れ(畏れ)はあってよい。しかし、人に対する恐れはできればない方がいい。

けれど、私たちは人を恐れる。そればかりか、健康を恐れ、環境を恐れ、未来を恐れる。

ルカの福音書は、人を恐れ未来を恐れた弟子たちがイエスと出会い、人生を変えられるストーリーと見ることもできる。

私たちはそこに自らを重ねて、イエスと出会い、救われ、恐れを取り去られ、仕える人生を望む。

ルカの福音書は、復活のイエスが天に帰られた後の弟子たちの描写で幕を閉じる。

「彼ら(弟子たち)はイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた(ルカ24:52-53)」

喜びをもって主をほめたたえよう。

 

マリアの確信

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主の憐れみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。

ルカの福音書 1:50

His mercy extends to those who fear him,from generation to generation.

Luke 1:50

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ルカの福音書1章を読み進める。

天使ガブリエルによって神の子を宿すことを告げられたマリアは、戸惑いと恐れを抱きつつも、最終的にはその状況を受け入れた。

私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように(ルカ1:38)

これはマリアの謙遜であるが、謙遜というとどうしてもpassiveな印象を持ってしまう。

しかし、同時に思うのは、受胎告知のショックを克服するためには謙遜さだけではなく、もっと強く積極的な感情が作用したのではないか、ということ。

神に選ばれし聖母といっても、いまの中高生程度の年齢のマリアには、もっとaggressiveな側面もあったと思う。

心の奥底から湧き上がる感動にカラダが熱くなったり、ほとばしる喜びを必死で押さえ込んでいたりしたかもしれない。

むしろそう想像する方が自然だ。

現に「それからマリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った(1:39)」とあるように、マリアは居ても立ってもいられなくなって、外に飛び出して行った。

親類のエリサベツに会うためである。

それは、ガブリエルから「あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です(1:36)」と告げられていたからである。

実は「ルカの福音書」はエリサベツの夫である祭司ザカリアの話から始まる。

天使ガブリエルは、いきなりマリアに受胎告知をしたのではなく、まずは祭司ザカリアに現れ、イエスの前に生まれるヨハネが妻エリサベツに与えられることを告げた。

神の計画は実に用意周到である。

マリアの訪問を受けたエリサベツは聖霊に満たされ、マリアを祝福した。エリサベツの祝福を受けたマリアはそれに応答するように神を崇め、喜び讃えた。

俗に「マリアの賛歌」と言われる有名な箇所である。その前半部分を引用したい。なぜなら、そこにマリアの謙遜と決意の両方が見られるからだ。

私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主の憐れみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。(1:46-50)

自らを主のはしためとする自己認識、そこにマリアの謙遜を見る。

と同時に、主が自分に大きなことをしてくださったと言うところにマリアの決意を見る。

そして、主の憐れみが代々限りなく及びますと断じるところにはマリアの確信を見る。

マリアの確信、そのベースにある全き信仰によって、イエスがこの世に来られ、十字架の死によって、絶えることなくいまを生きる私たちにも神の恵みが注がれ続けている。

ハレルヤ。

 

マリアの謙遜

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神にとって不可能なことは何もありません。

ルカの福音書 1:37

For no word from God will ever fail.

Luke 1:37

 

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 生活に適用 〜Application〜
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来週からアドベント待降節)が始まる

ちょっと気が早いが「ルカによる福音書」1章を読んでみる。

イスラエルハマスの4日間の休戦のニュースを聞き、そこから、第一次世界大戦のクリスマス休戦のことを思いだし、そしてもうすぐアドベントだなと思い至り、ルカに辿り着いた。https://seishoforum.net/ebisu/2017/12/148/

クリスマス休戦は、戦争が始まって迎える最初のクリスマスに、前線で自然発生的に起こったことで、もちろんそのこと自体は大変素晴らしく、神さまのプレゼントであると思うのだが、それ以降に休戦になることは二度となく、結果として世界大戦と呼ばれるように多くの死傷者を出したという点で、美談だと手放しで喜んではならない。

今回のイスラエルハマスの休戦は自然発生ではなく、計画的に、恐らく何らかの意図をもってなされた点で異なる。

休戦が停戦になるようにと願う一方で、これを喧嘩両成敗みたいにイーブンに扱われることには抵抗を感じる。

なぜならハマスは国家ではなく、テロ組織だからだ。テロ組織と国家の争いを同等に扱うのは普通に考えておかしい。

休戦期間は当初の4日間から延長されたが、それが停戦に繋がるのか、はたまた、クリスマス休戦のように、さらなる激化への序章なのか。後者のような気がしてならない。

エスが神の子として生まれた2000年前、聖書的には旧約と新約の中間時代、世界史的には西にローマ、東に漢が覇権を争う時代であった。イエスが神の子として生まれた、と書いたが、それではイエスの神性だけを示していることになるが、実際はイエスは人の子としても生まれた。

言ってみれば、イエスは100%神の子であり、100%人の子である、ということだ。

ヘブル人への手紙2章には「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした(2:14-15)」とある。

エスが神性と人性の両方を持つことが、ここに記されている。

なかでも最も象徴的なことは、イエスが処女マリアから生まれたことであろう。

当時15、6才と言われる幼いマリアに天使ガブリエルが「おめでとう恵まれた方、主があなたとともにおられます(ルカ1:28)」と言い、マリアはひどく戸惑った。

ガブリエルは続けて「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません(1:30-33)」と言った。

このときのマリアの気持ちは知ることができないが、戸惑いを超えて恐れがあったことだろう。何しろ天使が目の前に現れて、神の子を授かると宣言されるのだ、恐怖と畏怖が入り混じっていると想像する。

マリアのその感情を抑えるように、ガブリエルは神の全能さを伝える。それが今日の聖句である。

私たちはこのマリアの態度に倣う。

神に対する恐れを持ち、そして神の前で謙遜であり、神に従って生きる。

冒頭に述べた中東の争いを思うとき、神に対する正しい恐れを持ち、争う前に謙遜であることをイスラエルにもハマスにも切に願う。特に、リーダーである為政者に対して求める。

マリアは最後にこう言った。

「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(1:38)」

すべての人が神の前であるべき従順な態度である。

どうぞ神の計画がなされますように。

 

昼のもの

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しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

テサロニケ人への手紙 第一 5:8

But since we belong to the day, let us be sober, putting on faith and love as a breastplate, and the hope of salvation as a helmet.

1Thessalonians 5:8


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前回に続いて「主の日」のことを考えていく。

まずは、テサロニケ人への手紙第一の5章のいくつかの聖句を拾ってみる。

・主の日は盗人が夜やって来るように来る。
・人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように突然の破滅が襲う。
・それを逃れることは決してできない。
・暗闇の中にいないなら、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはない。

暗闇とか破滅とか、「主の日」には恐ろしいイメージがつきまとう。旧約聖書ゼパニヤ書のこの預言が下敷きになっていたことが予想される。

主の大いなる日は近い。それは近くすぐにも来る。主の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。(ゼパニヤ書 1:14-16)

この預言、確かに怖い。パウロは煽っているのか?

* 

聖書に精通していたパウロは、ゼパニヤのこの預言のことも当然知っていた。

しかし、聖書を熟知しているからと言って、それをただ引用したかったのではない。パウロが「主の日」のことを語るのは、人々に恐怖を与えたいのでもない。

復活のイエスに出会い改心したパウロは「主の日」の認識をも改めたはずだ。

確かに預言にはそう書いてあるし、「主の日」の恐怖を植え付けられているけど、それが私たちの終わりなのではない。

パウロは闇の中に光を見、破滅の中に希望を見ている。だから、暗闇とか破滅とか述べた直後に「私たちは昼の者」であると断言するのである。

正しい理解を促した上で、では、どう過ごせばいいのか? を説く。

将来を見据えながら、視点はむしろ「いま」にある。

5章の続きを示そう。

・眠っていないで目を覚まし、身を慎んでいましょう。
・神は、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださった。

・私たちが目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるために、主が死んでくださった。
・互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。 

ここにはパウロの信仰による確信がある。

パウロの主張は明確で、それは「目を覚ましていなさい」ということである。

たとえいま闇の中を歩んでいるとしても、私たちは昼の者、光の子として生きていくのだと。

胸当ては心臓を保護する防具であり、敵の攻撃によって致命的な傷を負うことのないようにするためのものである。信仰と愛を胸当てにするとは、それによって闇の力、つまりサタンから身を守ることである。

救いの望みをかぶとにするのも、胸当てと同じように闇の支配を受けないためだ。

信仰・愛・希望をもって光の中を歩もう。

 

 

善でいよう

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善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。

アモス書 5:14

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ハマスイスラエルを攻撃してから1ヶ月以上になる。

ロシアとウクライナがそうであるように、戦争は長期化するとその状態に慣れてしまう。異常が平常に、不自然が自然に変わってしまう。報道に触れても過剰に反応しなくなってしまう。

中東の戦争についても、最初はイスラエル安息日に攻撃を受けたこと、多くの人が殺されたこと、そして捕虜になったことを大々的に報じていた。ハマスのテロ行為に過剰に反応していた。

しかし、イスラエルが報復攻撃を仕掛けると、今度はガザの惨状が大々的に報じられ、イスラエルの反撃の凄まじさに過剰に反応するようになった。

そしてその状態が続いている。

国連のイスラエル批判は周りに大きな影響を与える。そもそも、どっちもどっちなんだから停戦して頭を冷やしなさいという、いわゆる喧嘩両成敗的なアプローチが、ハマスのテロ行為を助長することに繋がるという認識はないのだろうか。

テロ組織と国家の戦いにおいて、守られるべきは国家でありテロ組織ではない。

それを、テロ組織が潜伏する地域に住む住民の生命の保護を最優先に据え、つまり人道的立場に立って、攻撃をやめなさいと言えば、喜ぶのは住民ではなくテロ組織である。

住民が望むのは、争いよりもテロ組織の消滅なのに。

クリスチャンである私たちにとって、イスラエルが攻撃されることは、驚きを超えてショッキングである。

なぜなら、この争いを歴史的に、そして聖書的に認識するからだ。

人道的支援はもちろん大切である。しかしそれよりも大切なのはテロのない世界の実現である。

そのためには正しい歴史認識が欠かせない。そのためにハーベストの中川牧師の動画が役立つ。

https://m.youtube.com/watch?v=KITIPlQYUVc

アモス書5章は哀歌である。

南王国ユダの一介の羊飼いであるアモスは、神に預言者として召され、隣国である北王国イスラエルに対する罪と裁き、そして破滅のメッセージを綴った。

このメッセージは、歴史的にはアッシリア捕囚のことを指すが、預言的には「主の日」を示す。

「主の日」とは、キリストが地上に再臨して始まる、神の統治による千年王国のことである。

しかし、アモスは「主の日」について喜びを語らない。

ああ。主の日を切に望む者。主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。(5:18)

だからこそ、今日の聖句のように、求めるべきは悪ではなく善であり、そうすれば主は私たちとともにいてくださる。

善を求める生き方。

アモスはこうも述べている。

公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。(5:24)

善とは公正であり正義。

私たちは、善を行なうよりも、善でいることを切に望む。公正と正義を纏いたい。

 

高い者は低く

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だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

マタイの福音書 23:12

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エスが律法学者やパリサイ人(ユダヤ教の宗教的指導者)に対する批判を語る場面。

23章の冒頭から今日の聖句である12節に至るまでに、イエスが話したことを箇条書きにして、そこから適用を考えたい。

・彼ら(律法学者・パリサイ人)があなたがた(弟子・群衆)に「言うこと」はすべて守りなさい。
・しかし、彼らの「行い」をまねてはいけない。・彼らは人々に重い荷を載せるだけ載せて、それを助け支えるために指1本出さない。
・彼らの「行い」は人に見せるためである。
・先生と呼ばれることに慣れており、それを求めている。

彼らは言っていることと行動が伴っていない、有言「不」実行、言行「不」一致であると、痛烈に批判した。「おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ(マタイ 23:28)」と、舌鋒鋭い。

言っていること、つまり「教え」そのものは聖書に書かれていることだから、正しいのは当然。だから守る必要がある。

しかし「行い」は見倣うものではない、と。

エスが生きた時代、それは旧約聖書新約聖書の狭間の時代(中間時代という)であり、その頃の中東パレスチナはローマの支配下にあった。

世界史を眺めると、時の為政者がペルシア帝国からギリシアに移り、アレクサンダー大王の死後、帝国が分裂し混乱し、やがてローマが台頭する、そんな時代である。ちなみに中国は秦・漢、日本はなんと弥生時代である。

このような混乱と不安の時代に、ユダヤの指導者は律法に忠実に生きることを人々に求め、人々は聖書に預言されたメシアを待望するようになった。

宗教的指導者たちは、守るべき聖書の「教え」に群衆が忠実であるために、膨大な数の取り決め(=新たな「教え」)を張り巡らせた。これを口伝律法というが、イエスはこれについては激しく戒めている。

このように「教え」を細かく設定し、日常生活をがんじがらめに縛ることによって、彼らは専門家として先生として、高いところに存在する者であることを顕示した。

エスは最も高いところに存在するお方であるのに、低き者としてこの世に来られた。

「ピリピ人への手紙」を引用する。

キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。 (ピリピ 2:6-9)

そして、イエスは「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と教えた。

さらに「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい(マタイ20:28)」と、へりくだりと奉仕の精神を求めた。

現代に生きる私たちは、ユダヤ教信者のように口伝律法に拘束されることはない。イエスが教えたシンプルなルールを胸に刻んで、神に喜ばれる生き方を求めるのみだ。

この世に功績を残す必要はない。天に宝を積もう。結果を神に委ねよう。

神はすべてを益としてくださる。