聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

リマインド

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あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。

イザヤ書 40:28

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footprints(足跡)という詩がある。

私が求道中のころ、同年代のクリスチャンの方から教えてもらった。

そういえば、求道中という言葉を久しぶりに使った。洗礼を受けていないが教会に通っている状態、洗礼を受ける準備をしている状態、それを求道中と言う。

実際、そのときは自分が洗礼を受ける準備をしているなんて思っていないから、人から「あなたは求道中ですね」と言われても、いやそんなことまだ決めてないんだけど…と困惑していた。

今となっては甘酸っぱい思い出。

信じるに値するのか?と疑心暗鬼で聖書を読みながら、洗礼を受けるって検定試験みたいなものかな、だったら自分はムリかなとか、真剣に考えていた。けれどそうではなかった。

主は私を背負って歩んでくださっていた。

自分の人生には自分の足跡だけが残っている、そんなの当たり前じゃないかと思っていたら、その足跡は主の足跡であった。パウロじゃないけど目からウロコとはまさにこのことであった。

https://youtu.be/SJXZqckChnM?si=T9gTJyxwgksIJ5Se

私は自分の足で歩いているから大丈夫です。むしろ、神さまは肝心なときに限って見捨てるから必要ありません。

今回取り上げたイザヤ40:28の直前には、そんなイスラエルの神への不平不満が記されている。

私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている。(40:27b)

同じように、footprintsの詩にも書かれている。

主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。

こうして神に向かって「なぜ?どうして?」と嘆くことは不信仰なのか?

詩の作者やイスラエルの民の嘆きは、私たちの嘆きそのものではないか。ただ代弁してくれているだけではないか。私たちは高いところからそれを批判できない。

私たちは物事がうまくいっているときは神の存在を忘れ、自分の力を誇る。なのに、逆境に陥ると神に向かって「なぜ?どうして?」と嘆き、不平不満を述べる。

自分が背負われていることも知らずに、どうして一緒に歩いてくれないのか、と。

しかしイザヤ書40章において、神はご自身の4つの性質を示し、神の存在を思い起こしてくださる。

1.主は永遠の神
2.地の果てまで創造した方
3.疲れることも弱ることもない
4.その英知は測り知れない

時を支配し天地を創造し、それでいて疲れも弱さもなく、測り知れない英知を持つ。そんな存在が神でなくていったい誰が神たり得るのか。

私たちは、神が治める時の中で創造された被造物として、疲れても弱っても慰められ励まされ、神の英知のほんのわずかを自らの知恵として活用する者だ。

嘆きや不平不満も知恵あってこそ吐けること。そう思えば、神のおかげで私たちは安心して(?)嘆いたり不平不満が言える。

しかし、神にぼやくそのときに、私たちは神の4つの性質を思い起こす者でありたい。

「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか」は、神の叱責であると同時に「あなたは知っているはずだ。聞いたことがあるはずだ」と、神からのリマインドでもある。

応答しよう。

主よ、私はあなたの存在を知っています。あなたの御ことばを聞いています、と。

 

来て見て

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来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。

ヨハネ福音書 4:29
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来て見て、と聞くと富士通のCMを思い出す。

あれはいつだったかとググってみると、96年とあった。そうか、90年代後半、デスクトップPCからノートPCへ、Windows95から98へ。iMacリリース前、とすると当時の覇者はNECだったか?すると富士通は後発だったか…。

あの頃はまだAmazonなどなく、ネット消費も全然盛んではなかった。何かを購入しようと思ったら、現物があるところに「来て見てさわって」確認してからが普通だった。

ネット消費が主流になった現代であってもリアル消費がなくなったわけではない。むしろコト消費やトキ消費というように、文脈や体験を伴う消費行動に価値が置かれている。

聖書を読むと「来て見てさわって」はじめて信じた弟子の話がある。

そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
ヨハネ 20:25)

疑い深いトマス。この頑なさ、まるで自分を見るようで辛い。

さて、今日取り上げたのは「イエスとサマリヤの女」の箇所である。

ここでのメインテーマは「尽きることのないいのちの水(Living Water)」だが、これはこれでまた別の機会にじっくり記したい。

女はイエスとの問答を通して、イエスが来るべき救い主メシアだと自覚する。言い方を変えれば、女はイエスとの問答によって、自らの罪の悔い改めと信仰告白に導かれた。

エスに飲み水を与えようとしたサマリヤの女は、逆にイエスから生きる水を与えられ、目が開かれた。

居ても立っても居られなくなった女は、水がめを置いたまま町に走って戻った。

来て、見てください!

息も絶え絶えに女は町の人々に叫んだ。

町の人々の反応はどうであったか? トマスのように見なければ信じない頑なな人たちであっただろうか?

答えはNOだ。

彼らはすぐに町を出てイエスのもとに向かった。そして「その町の多くのサマリア人が『あの方は私がしたことをすべて私に話した』と証言した女のことばによってイエスを信じた(4:39)」のである。

来て見て信じたサマリヤ人の素直さは、ユダヤ人であるトマスの頑なさと対比してみるとより際立つ。

著者のヨハネは明らかに意図的に対比して書いていると思われる。実は、ヨハネ福音書にはもう1箇所「来て見て」エピソードがある。

それは冒頭の第1章にある。

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ピリポは言った。「来て、見なさい」(1:46)

こうしてヨハネは、1章でピリポに、4章でサマリヤの女に、そして20章でトマスに「来て見て」を言わせた。これを意図的と言わずしてなんと言おうか。

来て見たら信じる人、来て見てもなお信じない人。あなたはどっち?と問われたら、当然来て見たら信じる人になりたいと答える。

では、来て見たら信じる人、来て見なくても信じる人。あなたはどっち?と問われたらどうだろう。

途端に即答できなくなってしまうのではないだろうか。

エスはトマスにこう言った。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(20:29)

来て見なくても信じる人になろう。

 

 

神の愛

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神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。

ヨナ書 3:10
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ヨナ書は4章しかない短い預言書だ。

しかし、そのユニークな内容とショッキングな展開は、読む者の記憶に深く残される。

1章では「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ(1:2)」と、ヨナは神から召命を受ける。が、それに逆らって船に乗って逃亡する。

「ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった(1:4)」ため、ヨナは海に投げ込まれてしまう。

ヨナを投げ込むと途端に海が凪いだので「人々は非常に主を恐れ、主にいけにえを献げて誓願を立てた。主は大きな魚を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた(1:16-17)」。

という話である。

魚の中で神に祈り叫んだヨナは、三日後にようやく陸地に吐き出された。ヨナの祈りにこたえ、ヨナを魚から吐き出させた神は、再びヨナを召命する。

「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ(3:1-2)」

一度失敗したとしても、悔い改めのときまで神は忍耐強く待っておられ、悔い改めると神は再び語りかけてくれる。

先週の礼拝で私は司会を担当した。旧約聖書の朗読箇所がヨナ書の3章であった。

朗読に備えてヨナ書を1章から丁寧に読んだ。そこで感じたことは、神の召しから逃げ出すヨナへの同情と、そんなヨナを忍耐強く待たれた神の憐れみであった。

3章では、ニネベに到着したヨナが、神の滅びのメッセージを告げる場面が描かれている。

ニネベの人々はどう反応したのか?

驚いたことに「もしかすると、神が思い直して憐れみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない(3:9)」と、あっさり悔い改めたのだ。

そして今日の聖句「…そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった」につながる。

放蕩息子と父の例話を思い出す。

ヨナ書はここで終わってもよかった。神からの滅びの宣言を受けてニネベが悔い改めて神を信じた。それによって神の裁きを免れた、めでたしめでたしと。

ところが、続きの4章がある。

4章では、悔い改めて滅びを免れたニネベを見て、あろうことかヨナが怒る。不愉快になり、神に不平不満を述べる。もう死んだ方がましだと自暴自棄になる。

裁きが下るから悔い改めよと言われたニネベが悔い改めたことで裁きを免れた。このことによりヨナの預言は無効になるというパラドクス。

ヨナの預言者としてのプライドが傷ついたのだろう。

自尊心が損なわれると、私たちはショックのあまり怒りに身体を震わせる。ヨナの怒りはまったく他人事ではない。

それからヨナと神との問答が続く。駄々をこねる子どもを優しく諭す親のように、神は忍耐強くヨナに語り、無条件の神の愛、計り知れない神の愛を教える。

ここで再び、放蕩息子の例えを思い出す。今度は、放蕩息子の兄と父のことである。

悔い改めて戻ってきた放蕩息子(弟)を父が無条件の愛で受け入れたのを見て「兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた(ルカ15:28)」

兄のプライド、ヨナのプライド。怒りに身体を震わせる。2人が重なって見える。

しかし、神はそんな2人をも無条件の愛で寄り添ってくれる。一緒に喜ぼうではないかと、肩を叩いてくれる。

ローマ人への手紙12章にある有名な聖句「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい(ローマ12:15)」にあるように、私たちはともに喜び、ともに泣くことで、神の愛を学ぶ。

プライドはある、嫉妬心もある、優越感もある。それでも、一緒に喜ぼう。一緒に泣こう。神の愛に少しでも近づいて生きていこう。

 

おくりもの

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あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。

詩篇 139:3
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高校生の娘が塾に通い始めた。

半年ほど留学していたため一般入試は眼中になく、AO入試(今は総合型選抜という)や指定校推薦、公募推薦を考えており、その対策のためである。

一般入試であれば、ペーパーテスト対策だから5科目の勉強をすればいいのだが、推薦狙いとなるとそういうわけにはいかない。

となると、個人で対策するには限界があり、そこで専門家の手を借りることにしたのだ。

今、自分史を作っている。

志望理由書にしろ、小論文や面接にしろ、その対策をするには、まずは自分を知ることから始める。過去の自分を知ることで、現在の自分を客観視できる。そこから将来のありたい姿を探る。

そう言われたらしく、毎晩PCのキーをカタカタ叩いている。

16才17才の段階で、このように自分を振り返る時間を持てるのは大切なことだし、素晴らしいことだと思う。

自分史に取り掛かった娘は、まず始めに、生まれた頃のことを私と妻にインタビューした。

よく寝る子だった。

夜泣きがなく、だから夜中に起こされて寝不足になることはなかった。どんなに昼寝をしても夜もちゃんと寝る、そしてひとたび寝ると朝まで眠り続ける、夜中に寝ながら授乳するなんてこともよくあった。

「かみさまからのおくりもの」という絵本がある。
https://www.kogumasha.co.jp/product/222/

「ほっぺのあかいあかちゃんには このおくりものがいい。とどけておくれ」
「はい かしこまりました」
「てんしがはこんできたおくりものは よくわらう でした」
「あかちゃんは よくわらう あかるいこどもになりました」

よく笑う、よく食べる、歌がすきなど、どんな子どもでも、生まれるときに神さまから贈りものが与えられる。そんな素敵な絵本である。

当時、この絵本を読んで、うちの子は間違いなく「よく寝る」だと感じたものだ。

よく寝る娘は、寝返りを打つようになり、ハイハイするようになり、座って、そして立って、歩くことができるようになった。なんのトレーニングをするでもなく、もちろん保育園のおかげもあるにはあるが、自然に歩くことも伏すこともできるようになった。

当たり前に思っているが、この当たり前は奇跡の連続で成り立っているのは間違いない。そのことについて、私たちは何もわからないし、何も知らない。それは、神さまだけが知っている。

私たちを造り、この世に誕生させてくださった神さまは、私たちが歩くのも伏すのも見守り、私たちの道のすべてを知り抜いておられる。

子どもは「授かりもの」と言うが、それは神さまから私たちが親として授かった、預かった、任された「おくりもの」である。

子どもの年齢は、また親としての年齢でもある。

子どもが1才なら親も1才、子どもが10才なら親も10才。子どもの成長と親の成長は同時進行なのだ。そして、それを支えてくれるのは、授け主、預け主、贈り主である神さまである。

すべてを知り抜いておられる神さまがいるから、私たちは安心して自分の歩みを委ねることができる。

これからの歩みも神さまに委ねよう。

娘は明日で17才になる。

 

変えてください

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この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

ローマ人への手紙 12:2a
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不思議な聖句だ。

命令文が2つ並んでいるのだが「否定の命令形」と「受身の命令形」が対句になっている。日本語よりも英文の方が理解しやすいかもしれない。

Do not conform to the pattern of this world. Be transformed by the renewing of your mind.

2つのポイントを示そう。

1つは、conformとtransformについて。もう1つは、受身の命令形について。

「フォーム:形」を意味するformに、con-/trans- という接頭辞がつくとどうなるか。

con-には「一緒に」という意味があるから、conformは「適合する」となる。trans-には「移す」という意味があるから、transformは「変形する」となる。

「この世と調子を合わせてはいけません」は、俗的で肉的な生き方をしないように、という命令である。

リビングバイブル訳を見てみると「この世の人々の生活や考え方をまねしてはいけません」とあって、さすがわかりやすい。

後半の「心を新たにすることで自分を変えていただきなさい」は、自力ではなく神に頼んでリニューアルされることを命じている。

同じくリビングバイブル訳を見てみると「なすこと考えることすべての面で生き生きとしたまったく新しい人となりなさい」とあって、これまたわかりやすい。

さて、リビングバイブル訳では、Be transformed by the renewing ~が「新しい人となりなさい」と訳されているが、これでは残念ながら「受身の命令形」になっていない。

「変わりなさい」と命じられたら、自分の力で変化しようと努力してしまうだろう。

世の中は「変わりたい」願望に溢れている。ダイエットや整形といった外見的な変化はまさにそうだし、コスプレのような変身願望もまたそうである。

また、ネガティブ思考だからもっとポジティブになりたいなど、内面的な変化を求めて努力する人も多いだろう。

ビジネスにおいても、外見や内面は常に変化し続けている。

変化というよりは、ブラッシュアップとかリスキリングとかの片仮名ワードで上手に包められて、スキル向上による変化を半ば強制的に自分に課しているような気がする。

変わりなさいと、変化を求めているのは組織だったり管理職だったりするかもしれない。

が、自分自身が変わりたい、変わらなきゃと思っているように錯覚し、変わらないと居場所がなくなると自分を追い込んだりすると、これは危険な状態である。

クリスチャンは、自分の力を過信して、自分の力ですべてを為そうとすることの虚しさを知っている。

神と自分を仲介する存在としてイエスキリストがいる。

神が私たちに「変わりなさい」と命じているのではなく、イエスが私たちに「(神に)変えていただきなさい」と命じる。もう少し直接的に表現すると「変えられなさい」となる。

自分が「変わりたい」と思うとき、自分の力で為そうとするのではなく、神の前にへりくだり「変えてください」と求めよう。

「変わりたい」気持ちを否定するのではない。外見はともかく、内面の変化を求めるときこそ神に「変えてください」と祈る。

些細なことにすぐに腹を立ててしまう短気な自分を改めさせてください。柔和で寛容な性格にしてください。顧客や同僚と会話をするときに思いやりを忘れずにいられるようにしてください。

祈りによって内面が変えられると表情が変わり、態度が変わり、行動が変わる。そうして外見にも変化が見られる。

あるとき過去の自分を振り返り「あぁ、私は神に変えていただいたのだなぁ」と実感するときが来る。楽しみではないか。

新しい年を迎えて

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すべての国々よ、主をほめたたえよ。すべての国民よ、主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。

詩篇 117:1-2
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今年の正月は穏やかに始まった。

帰省先の実家でのんびりとコーヒーを飲みながら、朝の陽射しをたっぷり浴びて、文字通り新春を感じていた。

午後からは親戚たちが入れ替わりで実家を訪れ(いわゆる田舎の長男の家なのだ)、おせちをつまみビールを飲み、お互いの近況を話しては笑い合った。

そうして夕方4時を回ったころ、全員の携帯が一斉にけたたましく鳴った。地震発生のアラームだった。すぐにTVをつけて観ていると、次第に自分たちも揺れを感じるようになった。

速報から1分2分くらい遅れて、ゆっくりとであるが大きな横揺れが襲った。震度は3か4だろうか、すぐに収まらずしばらく揺れが続いた。

新年の集いはすぐに散会し、みな帰路についた。

2024年の幕開けは穏やかに始まったと思っていたが、うららかな陽気とは裏腹に、大きな自然災害に見舞われるスタートとなった。

震源能登半島を中心に日本海側の多くの地域が被災した。冬の日本海にあって、断水や停電とあっては、厳しい寒さにさぞ凍えるに違いない。

徐々に被害の全容が分かり、必要な支援が明らかにされるだろう。被災された方々を支援する具体的な方法が示され、なるべく早い段階で、国内外からの支援が被災地に届くことを願う。

このようなとき、クリスチャンとして祈ることは、被災された方々の心と身体のケア、特に年老いた方や幼い者たちの生命が守られることである。

さらに、被災地の復興である。そのために物心両面でのサポートが適切に与えられることである。

加えて、それでも私たちは神を見上げて、神をほめたたえることができるよう祈り求めることである。

苦しいときの神頼みという言葉がある。

普段は信仰など持たない者が、病気や災難で困ったときだけ神仏に助けを求めることである。

一方で、この世に神などいないと言う者もいる。

映画「乱」でピーター演じる道化が主君の死に際して「神も仏もいないのか!」と天に向かって叫ぶときや、小説「沈黙」でフェレイラが「神はいないのか?」と神に失望するときなどはそうである。

私たちは私たちの都合に合わせて神を崇めたり貶めたりする。あるときは神頼みし、またあるときは神を恨む。そして神の存在を否定する。

神は普遍であり偏在なる存在であるのに、自分が理解できるレベルに引き寄せて、自分サイズの神として手元に置きたがる。

だからこそ、私たちにはみことばが必要だし、神はことばとなって私たちを支えてくださる。

信仰があるからみことばを唱えるのではなく、みことばを唱えることによって信仰は強められる。

主の愛と恵みは私たちが測ることができないくらい大きい。主の真実と正義もまたとこしえまで。

新しい年も主とともに歩む。

 

 

仕える者

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エスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

マタイの福音書 9:9

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2023年の最後を締め括る聖句を…と思っていたが、今年の漢字のニュースを読んで予定を変更した。

今年の漢字NHKニュース)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231212/k10014285311000.html

「税」であった。

てっきり昨年と同じ「戦」だろうと思っていた。ウクライナ、そしてパレスチナと、戦争のニュースに心を痛めることが多かったから。

「税」が1位になった理由を見てみると、確かに多くの人にとって大きな関心事であったことがよく分かる。日々の暮らしに直接的な影響を及ぼす「税」だから、増税や減税のニュースに敏感になるのも仕方ない。

それでも世界に目を向けて、多くの人が命を落としている現実を知り、平和を求め祈ることを最優先したい。

「和・穏・幸…」といった漢字が世相を表す世の中になることを願う。

そんなこんなで「税」に引きずられてしまい、今年最後の聖句は、マタイがイエスに招かれたときの1節にした。

「マタイの福音書」を書いた使徒マタイの職業は取税人であった。「税」を払う側ではなく貰う(取り立てる)側にいたのがマタイである。当時の取税人は民衆に大変嫌われていた。

なぜなら、取り立てた税金は当時ユダヤを支配していたローマのものであり、取税人はローマの手先と見なされていたからだ。

マタイがなぜ取税人という職業であったのか、代々受け継いだものなのか、マタイが望んだのか、せざるを得ない状況にあったのか、それは分からない。

私たちには分からないが、イエスははっきりと分かっていた。分かっていたからイエスはマタイを弟子として招いた。立派な人物だから招いたのではなく、マタイの心に触れ、悔い改めの招きをした(機会を与えた)のだ。

エス自身も「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため(マタイ9:13)」と証言している。

まさに「人はうわべを見るが、主は心を見る(第一サムエル16:7)」である。

さて、取税人に求められるスキルとは何だろう。

ユダヤの地は東西南北の交通の要所であり、さまざまな国の人々が行き交った。マタイはそれらの人から正しく通行税を取り立てる必要があった。

そうすると必要なスキルは、語学力・計算力・記述力の3つであろう。

マタイは後に「マタイの福音書」を書く。その書き始めは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト系図(マタイ1:1)」であり、イエスがアダムから繋がる聖書に預言されたメシアであることを記している。

取税人として働いていたマタイのスキルは、福音書記者として如何なく発揮された。彼の語学力や記録によって、キリストの福音がユダヤ人のみならず2000年のときを経て現代の私たちにも届いている。

取税人からイエスの弟子、そして福音書記者へと、大いに変えられた人生、想像すらしなかった人生を送った人、それがマタイである。

マタイという名前の意味は「神の贈り物」だと言う。マタイがイエスとの出会いによって、人生を180度方向転換し、取り立てる者から仕える者へと変えられた。

私たちも人生のあるタイミングで「わたしについて来なさい」と招かれる。

その招きを受けて、なお座り込んでいるのではなく、立ち上がって喜んでついて行く者でありたい。