聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

来て見て

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来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。

ヨハネ福音書 4:29
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来て見て、と聞くと富士通のCMを思い出す。

あれはいつだったかとググってみると、96年とあった。そうか、90年代後半、デスクトップPCからノートPCへ、Windows95から98へ。iMacリリース前、とすると当時の覇者はNECだったか?すると富士通は後発だったか…。

あの頃はまだAmazonなどなく、ネット消費も全然盛んではなかった。何かを購入しようと思ったら、現物があるところに「来て見てさわって」確認してからが普通だった。

ネット消費が主流になった現代であってもリアル消費がなくなったわけではない。むしろコト消費やトキ消費というように、文脈や体験を伴う消費行動に価値が置かれている。

聖書を読むと「来て見てさわって」はじめて信じた弟子の話がある。

そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
ヨハネ 20:25)

疑い深いトマス。この頑なさ、まるで自分を見るようで辛い。

さて、今日取り上げたのは「イエスとサマリヤの女」の箇所である。

ここでのメインテーマは「尽きることのないいのちの水(Living Water)」だが、これはこれでまた別の機会にじっくり記したい。

女はイエスとの問答を通して、イエスが来るべき救い主メシアだと自覚する。言い方を変えれば、女はイエスとの問答によって、自らの罪の悔い改めと信仰告白に導かれた。

エスに飲み水を与えようとしたサマリヤの女は、逆にイエスから生きる水を与えられ、目が開かれた。

居ても立っても居られなくなった女は、水がめを置いたまま町に走って戻った。

来て、見てください!

息も絶え絶えに女は町の人々に叫んだ。

町の人々の反応はどうであったか? トマスのように見なければ信じない頑なな人たちであっただろうか?

答えはNOだ。

彼らはすぐに町を出てイエスのもとに向かった。そして「その町の多くのサマリア人が『あの方は私がしたことをすべて私に話した』と証言した女のことばによってイエスを信じた(4:39)」のである。

来て見て信じたサマリヤ人の素直さは、ユダヤ人であるトマスの頑なさと対比してみるとより際立つ。

著者のヨハネは明らかに意図的に対比して書いていると思われる。実は、ヨハネ福音書にはもう1箇所「来て見て」エピソードがある。

それは冒頭の第1章にある。

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ピリポは言った。「来て、見なさい」(1:46)

こうしてヨハネは、1章でピリポに、4章でサマリヤの女に、そして20章でトマスに「来て見て」を言わせた。これを意図的と言わずしてなんと言おうか。

来て見たら信じる人、来て見てもなお信じない人。あなたはどっち?と問われたら、当然来て見たら信じる人になりたいと答える。

では、来て見たら信じる人、来て見なくても信じる人。あなたはどっち?と問われたらどうだろう。

途端に即答できなくなってしまうのではないだろうか。

エスはトマスにこう言った。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(20:29)

来て見なくても信じる人になろう。