悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。
ペテロの手紙 第一 3:9
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ハムラビ法典を思い出した。
「目には目を歯には歯を(An eye for an eye and a tooth for a tooth)」と高校の世界史で習った。
そのとき、おそらくは正しい意味を教えてもらっていたと思う。これは同害報復を命じるもので、必要以上の仕返しを禁じた法律である、と。
しかし、高校生の私は「やられたらその分だけキッチリやり返すべし」と受け取った。愚かであった。
そして世間ではそのような誤用が今もされている。「やられたらやり返す」はまさにそうだし、有名なドラマの「やられたらやり返す、倍返しだ」は同害報復の原則に反するから、明らかな律法違反になる。
旧約聖書にも同害報復を定めた箇所がある。
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。(レビ記 24:20)
聖書的には「自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う(24:15)」から派生することとして、同害報復を命じている。なぜなら「わたしがあなたがたの神、主だから(24:22)」とある。復讐するは我(神)にあり、と似ている。いくら古代イスラエルが神による律法国家であるとはいえ、裁きは神の領域ということを忘れてはならないと思う。
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しかし、新約聖書になると、イエス自身がこのことに言及し、こう述べている。
「目には目を、歯には歯を」と言われていたのを、あなたがたは聞いていますら、しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)
イエスは決して旧約を否定したのではない。
否定ではなく、同害報復の律法を正しく理解(やられたらやり返すではない)した上で、新しい律法の解釈を与えているのだ。右の頬をぶたれたら左の頬を向けなさい、下着を取ろうとする者には上着も与えなさい、1ミリオン(1.5キロ)行くことを命じられた者とは一緒に2ミリオン行きなさい、求める者には与えなさい。このようにイエスは律法の再定義を理解させるために畳みかけてくる。
これを聞いたユダヤ人の驚きと動揺が伝わってくる。私たちの理解を超えた神のパラドクス、凄すぎる。
民衆はおろか、最も身近にいた弟子たちでさえ、驚愕したことだろう。
それは一番弟子のペテロも同じで、自身の書簡に記した今日の聖句の箇所を読めばそれがわかる。
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この書簡は、イエスの死後30年ほど後に書かれたもので、ユダヤ人向けではなく異邦人に向けて書かれている。つまり、現代に生きる私たちにも適用できる、ということだ。
一番弟子として、使徒として伝道に生涯をささげ、多くの人々をキリストへの愛に導いた。そのペテロがイエスの述べた真理を、自分のことばで語っている。このペテロの言葉に、イエスが去ってからの30年間の歩みの重みと、重ねてきた信仰を思う。
ペテロはいう。
嫌なことをされてもそれを返さないようにしなさい。侮辱されてもそれを返さないようにしなさい。イエスのたとえの過激さがやや和らげられている。とはいえ、だから簡単になったわけではない。むしろ、実際よくある場面だからこそ、より身近に感じられ、そして迫ってくるものがある。
ペテロは続ける。
むしろ祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです、と。
やり返さずに祝福をする。このことのなんと難しいことか。聖書を読んで把握しているペテロの性格からして、ペテロ自身が一番試されたのではないかと思う。打てば響くペテロは、誰よりも情に厚く感情的な男であっただろうから。
ペテロは「私たちは祝福を受け継ぐために神に呼ばれたのだ」という。祝福を与えるためには、祝福されていなければならない。そう、これがペテロの確信だ。
漁師をしていたペテロに「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう(マタイ4:19)」と言われたイエスに、網を捨ててすぐに従った原体験を終生忘れなかっただろう。イエスの招き、それは網を捨てて従ったまさにそのときであり、そのときが祝福を受け継ぐために召されたときであった。
ペテロの確信に連なり、祝福を受け継ぐ者として真理を実践しよう。