互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
ガラテヤ 6:2
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聖書を読むとたびたび遭遇する「重荷」。どんな意味があるのだろうか?
直前の6章1節には「もし誰かが過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」とある。
聖書では、試練に会い誘惑に落ちてしまう、私たちの誰もが持つ罪の性質のことを重荷と言う。
誘惑に屈することは、重大な過失。それが分かっていながら、それでも誘惑に負ける。
自分1人で、自分だけの力で、そこから抜け出すのは大変困難であり、理性でコントロールできないこともある。
重荷とはよく言ったもので、だから、自分では背負いきれない重い荷物、重荷なのである。そして、互いの重荷とは、あなたも私もみんな持っていることを意味する。
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続いて、互いの重荷を負い合うことについて。
先に取り上げた1節では、人の罪の性質、つまり重荷を認めたならば、それを正しなさいとある。
これって、分かっていてもなかなかできない。できないから、パウロは「柔和な心で」と、わざわざ但し書きを入れてくれている。
あなたも私も持っている重荷なのだから、人の罪の性質を指摘するときは、自分もまた罪の性質を持つ者であることを自覚する。
そこからしか、柔和さは生まれてこない。柔和、寛容、謙遜、そのような心を備え、人を正す。愛がなければとてもできない。
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聖句の解釈で終わりそうなので、強引にまとめる。
互いの重荷を負い合うことはキリストの律法を全うする、とある。キリストの律法とは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という黄金律のことであり、他人の過ちを正すには、やはり愛が必要であることがわかる。
翻って、同僚や部下に対する自分の態度はどうか。
立派でもない自分を何か立派でもあるかのように思っていないか?
誇れると思っても、それはただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないのではないか?
この世の律法を遵守するのみならず、この世に生きるクリスチャンはキリストの律法をも遵守する。
そこに愛はあるか?
絶えず自分を吟味して、驕ることなく謙虚でいたい。人の罪の性質を指摘して気分良くなるのではなく、その性質を負えるように神に助け求めよう。
神はすでに私の重荷を負ってくださっているのだから。