キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
コロサイ人への手紙 2:7
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根を張る。いい言葉だ。
調べてみると「新しい考えや風習などが受け入れられ、安定した状態になること。根付く、根を下ろす」とある。
今から20年前、聖書を読み、イエスに出会い、神を信じることにしたとき、私の中にたしかに根が生えた。
以来、スクスクと、いや、ときに根腐れを起こしそうになることもあったが、それでも少しずつ根を張っていった。
そうだ、同郷のアスリート、高橋尚子さんにまつわる名言にこんなのがあった。
「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」
まさに、辞書にあった「安定した状態になること」である。根を張るとは、目には見えないが、ぐらつかないようにしっかり基礎を固める、そんなイメージがある。
このように、自分の中にキリストが根付くことを求めているのだが、と同時に、パウロは、私たちがキリストの中に根ざすことをも求める。
私の中のキリストと、キリストの中の私。この両面からの認識が大切だ。
キリストの中に根ざすっていまいちピンとこないかもしれないが、強固な大地に植え付けられた種とか球根みたいに植物で捉えるのがいい。私たちの命は、私たちが根を張るキリストのうちから流れてくる。
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一方、根ざすことが下方向のベクトルだとすれば、建てあげることは上方向である。
半年ほど前からジム通いを始め、カラダが徐々に変わっていくのを体験している。緩んでいた部分が締まってくると気持ちがいい。カラダが健康だと気分もよくなることを実感する。
健全なカラダを土台にして、そこに豊かな感性や知性を建てあげる。
このように、私たちはキリストを土台にして、その上に自分の信仰を建てあげていく。
建てあげる信仰、それは日々の小さな積み重ねによってなる。積小為大、である。
ここで気をつけるべきは、自分の努力で積み上げていると勘違いしないことである。建てあげる信仰は、キリストの一方的な恵みによってのみ成し遂げられる。
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ある日、我が家の庭に朝顔の花が咲いた。種も蒔いていないし、水もやっていない。なのに、花が咲いた。これが恵みでなくて何だろう。
植物は根を伸ばしながら、同時に芽を出し、茎を伸ばし、葉を付け、花を咲かす。その営みに神の存在を知る。
朝顔の花を見ていると、その愛らしさから神への感謝が聞こえてくるようだ。
私たちもまた、建てあげられた信仰を強固なものとし、そこに感謝の花を咲かせたい。
溢れるばかりに!
♪ ドンモーエンの名曲 “Give Thanks”
https://youtu.be/blbslHDgceY