なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
ルカの福音書 14:11
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職場の歓送迎会でのこと。
しゃぶしゃぶに全く手をつけない新卒男子がいたので、苦手なのかと思い尋ねてみると、こういうのダメなんですと言う。
聞けば、鍋や大皿料理のように、箸をつつき合って食べることができないのだ、と。
批判するつもりはないが、心の中で溜め息をついて少し寂しい気持ちになった。小さい頃から大皿料理や鍋が多く、直箸なんか当たり前で育った自分とのズレに、軽いショックを感じた。
なんで今日の聖句から、こんな話を思い出したのかと言うと、イエスがこの言葉を語ったのが食卓だからである。
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祝宴に招かれた客人が、自ら上座を選んで座ったのを見てイエスがこう諌めた。
・より身分の高い人が、招かれているかもしれない。
・招いた人に「こちらの人に席を譲ってあげてください」と言われるかもしれない。
・そしたら末席に移動しなければならず、恥をかくことになる。
そうして、イエスは「招かれることがあって行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て『どうぞもっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります」
と言われた。
招かれたからと言って、ズカズカと前面に出る行為は礼節を欠く。そこには誠実さや柔和さは感じられない。
私たちは将来、天の御国で神の祝宴に招かれる。そのときしたり顔で席に着くことは避けたい。どうぞお進みくださいと言われたら、喜んで受け入れたらいい。
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冒頭のエピソードとイエスの例話は、食卓という共通点がある。
ただそれだけなんだけど、どうぞ! と勧められたときに喜んで受け入れるかどうかって大事だよなと思ったので、自分のアタマの中で結びついてしまった。
このイエスの例話からは「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のように、驕り高ぶりを戒めるような適用ができる。
遠慮して自分のことを伝えようとしない、それでは生きていけないと思う人もいるだろう。自分さえ良ければいいのであれば、それもいいかもしれない。
しかし、傲慢さからは他者への思いやりやへりくだりは生まれない。自分中心の循環から抜け出すことができない。
天の御国では、高ぶる者は低くされ、低くする者が高くされるという原則がある。傲慢さは打ち砕かれ、謙遜ベースの人間関係がある。
そして、そこでの料理はきっと大皿や鍋だろう。皆が喜んで直箸でつついているんだろう。そんな祝宴に招いていただくために、私たちはこの世で予行演習をしている。直箸の、ではなく、謙遜さの予行演習を、だ。