あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
第一ペテロ 5:7
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「思い煩い」という言葉を覚えたのは、たしか江國香織の「思いわずらことなく愉しく生きよ」だった。
三者三様の姉妹の物語。ここでこの本のことを語ることはしないが、いっとき熱烈に好きだった江國さんの本の中でも、ドロドロ感がすごい1冊だった。
思い煩いのない人なんて、はたしているのだろうか。程度の差こそあれ、誰もがまだ起こっていないことに対して不安を感じたり、目の前の状況を悲観したりして思い煩うことはよくあるだろう。
私たちは思い煩ったとき、その感情とどのように向き合っているだろうか。知識や技術で乗り越えるか? 快楽や放蕩に身を委ねるか? それとも…。
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聖書には思い煩う人物がたくさん登場する。
思い煩い度No.1は…ヨブかな。ヨブは次から次へと可愛そうになるくらいたくさんの思い煩いを呼ぶ。
知識や技術で乗り越えようとも上手くいかず、快楽や放蕩に身を委ねるほど自暴自棄にもなれず、しまいにもう命を奪ってほしいとさえ願うようになる。
そんなヨブはどうなったか、ヨブ記のラストシーンを抜粋しよう。
ヨブは主に答えて言った。「あなたには、すべてができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました」
あなたは言われる。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。
たしかに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知りえない不思議なことを。
あなたは言われる。「さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。
私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし、今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、ちりと灰の中で悔いています。
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思い煩いは傲慢なのかもしれない。
知恵や知識で解決しよう、経済や技術で乗り越えよう。そう思うことが、そもそも傲り高ぶりなのだ。
思い煩いは、ぜんぶ神に委ねなさい。委ねるは、英語でcastとある。つまり、釣り竿でキャスティングするように、思い煩いも糸の先に括りつけて、思いっきり遠くに投げ飛ばす。それが、委ねることなんだ、と。
そして、あとは神がケアしてくれる。
ここには傲慢とは反対の従順や謙遜がなければならない。
ペテロは、きっと若かりし頃の自分の傲慢さを思い出しながら書いたに違いない。謙遜さを身につけ、従順に歩んできたペテロは、思い煩いを神に委ねることを、それを神がケアしてくれることを体験から学んだのだろう。
私たちは、ヨブやペテロの体験と記述を通して、神に委ねることを覚えたい。
思い煩うことなく神に委ねよ。