さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ。そうすれば幸いがあなたのところに来るだろう。
ヨブ記 22:21
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平和も平安も英語にしたらpeaceだ。
けれど、平和と平安は、日本語のニュアンスとしては同じとは言えない。
違いはきっと人によって、世代によって、受けてきた教育によって異なると思うが、私にとっては、平和は外面的で、平安は内面的。平和は概念的で、平安は実在的。平和は集合的で、平安は個人的。
そんな違いがあるように思う。
簡単な例文を作ってみると「平和な世の中を願う」「心の平安を保つ」のように、やはり違いがある。
相関というか、因果はあるのかと言えば、相関は間違いなくあるとしても、因果はあるとは言い切れないだろう。平和な世の中でも心に平安がないことはあるし、心に平安が保てていても世の中が平和でないこともある。
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ヨブ記は難解だから、これまであまり取り上げてこなかった。
堂々巡りのように延々と繰り返されるヨブと友人の問答。ヨブ記の冒頭には「ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた(1:1)」とあるように、義人ヨブが紹介されている。
義人なのに、家族を失い、健康を失い、財産を失う。何もかも奪い取られる。
読んでいくと難解であると同時に、胸が苦しくなってくる。因果応報の世界はヨブ記にはない。
はじめは「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる主の御名はほむべきかな(1:21)」と信仰告白を述べる。
しかしこの後繰り広げられる(なんと37章まで!)友人との論争には、平安も平和もない。
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しかし、38章になって、全能の神が登場する。
読み進めていた者は、ようやく胸を撫で下ろして「真打ち登場!」と安堵する。満を辞して現れた神はヨブに語りかける。
いや、語りというより叱責に近い。おまえは神の偉大さがわかっていないのか、わたしを誰だと思っているのかと、神は畳み掛ける。
安堵した読者は、ここでまたしても胸が締め付けられ「どうして神はここまで追い込むのか…」と思う。読者の心の平安はまだない。
なのに、散々叱責されたヨブは「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません(40:4-5)」と、自分を蔑み、悔い改めるのである。
ヨブはそこで心の平安を得ているのだ。
そして、ヨブは大いなる祝福を受け、家族も財産も健康も与えられ、満ち足りた人生を送った。
今日の聖句は、実は友人がヨブを諭して言ったことであるが、文脈から言うとなんというか皮肉めいていて、悪意すら感じる。しかし、言葉自体は素晴らしいため取り上げた。
私たちの心の平安は、神に繋がることで得られる。そしてそこに平和が広がる。だから、私たちがまずするべきは、神と繋がること。繋がるためには神と和解すること、そうして平安を得ること。
平安があなたがたにあるように…。
(ヨハネ20:19)