聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

憐れむ者

f:id:songchi0326:20220331020140j:image

憐れみ深い者は幸いです。
その人たちは憐れみを受けるからです。
 
マタイの福音書 5:7
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
マタイ5章は有名な山上の説教。
 
山上の垂訓(すいくん)とも言う。訓示を垂れると書くわけだが、なかなか使わない言葉である。
 
ちなみに辞書で垂訓をひくと、たいてい用例で「山上のー」と書かれている。言ってみれば聖書用語なのかもしれない。
 
山上の垂訓は「心の貧しい者は幸いです」から始まる。
 
このように「〜な者は幸いです」というのが
・心の貧しい者
・悲しむ者
・柔和な者
・義に飢え渇く者
・憐れみ深い者
・心の清い者
・平和をつくる者
・義のために迫害されている者
 
と、8種類示されることから「八徳=beatitude」と呼ばれている。
 
その5番目が、今回取り上げた「憐れみ深い者」である。
 

 
憐れみというと、日本では憐憫というように、ややネガティブな印象が付きまとう。
 
ともすると、上から下への目線にも感じられてしまう。
 
しかし、そうではなく、憐れむとは寄り添うことで、他人の痛みや苦しみを分かろうとすることである。
 
共有することはできなくても、共感することはできる。同情するsympathyではなく、empathyの方だ。
 
エスは決して人の痛みが分からない方ではなく、むしろ、人となってこの世に来られ共感するにとどまらず、自らその痛みや苦しみを味わい、私たちと共有してくださった。
 
そのイエスが、私たちに対して共感することを勧めている。共有はイエスがしてくださった、だから、私たちはせめて共感はできるようになろうじゃないか。
 

 
娘が来月から通う高校(プロテスタント系の私立)で、入学者説明会があり、そこで讃美歌を歌い、聖書の1節を読む時間があった。
 
そのとき示された聖句が、このマタイ5:7であった。
 
なぜチャプレン(教会に属さず施設や組織で働く聖職者)は、これから高校生活をスタートさせようとしている15才の子どもたちに向けて、この聖句を選んだのだろうか。
 
八徳を眺めれば、たとえば6番目の心の清い者や、7番目の平和をつくる者の方が、門出に贈るに相応しいではないか? そう思った。
 
しかし、チャプレンはわずか1、2分の短い奨励の中で「あなたたちはこれまで学校や家族など多くの人たちに支えられて高校生になることができました。これからは、あなたたちが互いに支え合うことができるよう、寄り添い共感できる人になってください」と述べた。
 
30分の説明会の中のほんの短い時間だったが、チャプレンの述べたことばはおそらくすべての子どもたちに伝わったはずだ。聖霊が間違いなく植え付けてくださったはずだ。
 
憐れむ者は憐れみを受ける。
 
私たちはすでに神から憐れまれた者である。ならば、憐れむことができる者でありたいと願う。