一つのことを私は主に願った。
それを私は求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。
詩篇27:4
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「ただひとつの願い」という賛美がある。
今日の聖句は、この賛美の元ネタになっている箇所である。
歌詞を全掲載すると…
ただひとつ、わたしの願い求めは
主の家に住まうこと、いのちの限り
麗しき主を仰ぎ見て、主の宮に住み主を思う
麗しき主を仰ぎ見て、主の宮に住み主を思う
ほぼほぼそのまんまである。
教会の賛美チームでこの曲のドラムを叩いていると、いつも幸福感に満たされる。
シンプルなメロディ、ミディアムスローなテンポ、ドラムは単にビートを刻むのみ、歌の世界に没入できる。
麗しき〜をリピートするところは、たいてい目を閉じてしまう。
この詩の作者であるダビデも音楽をこよなく愛する人だった。この詩にどんなメロディをつけて、どんなテンポで歌ったのだろう。
そのときどんな表情をしていたのだろう。
https://youtu.be/namLACkSaxg
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ただ、よくよくこの聖句の前後を読むと、ダビデが決して幸福感に満たされた状態で歌ったのではないことが分かる。
むしろ、もがき苦しんで、その中から神への信頼と従順を吐き出したのではないかと思える。
直前の聖句を拾うと
主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。
私の肉を食らおうと、悪を行う者が私に襲いかかったとき、崩れ落ちたのは私に逆らう者、私の敵であった。
たとえ私に対して陣営が張られても、私の心は恐れない。
たとえ私に対して戦いが起こっても、それにも私は動じない。
明らかに逆境に立たされていることが分かる。
ここからダビデはうめくように神へのただひとつの願いを口にしたのだ。
*
私たちは辛いときや苦しいときに、神を恨んだりする。
それは試練であると教えられていても、なぜ? どうして? の疑念を拭えない。
そうではなくて、神さま助けてくださいと、素直になればいい。忘れていた従順さを取り戻せばいい。
そこに神の力が及び、導きを得る余地が生まれるのだから。
詩篇27篇の最後の節で、ダビデはこのように締めくくっている。
待ち望め主を。
雄々しくあれ。
心を強くせよ。
待ち望め主を。
…私たちもダビデに倣い、確信を持って主を待ち望む者でありたい。