ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コリント人への手紙 第二 5:17
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古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。
新学期に相応しい聖句だ。
街が桜色に染まるのを見ながら、桜ってイエスキリストみたいだなと感じていた。
桜の前には梅が咲く。
イエスの前にバプテスマのヨハネが来たように、桜の登場を予告するように梅が咲く。梅が咲くと、じきに桜が咲くことがわかる。道備えをする者が現れると救い主メシアが登場する。
そんなことを思いながら桜を眺めていると、芽吹くとき、咲き始めるとき、満開のとき、散りゆくとき、その時々にイエスの生涯を重ねてしまう。
三寒四温の春の天気は、まるでイスラエルの民のよう。シュロの葉を手に「ダビデの子にホサナ!」と喜び讃えた彼らは、「イエスを十字架につけろ!」と同じ口で呪いもした。
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春の天気が移ろいやすいように、イスラエルの民も簡単に煽動された。
翻って今を生きる私たちはどうだろう。
仕事や家庭が上手くいってるときは神の祝福に感謝する。と思ったら、上手くいかないときは神さまなんで?と愚痴ったりする。
もう1つ、桜とイエスを重ねているときに思い出したことがある。
高校だか中学だかの教科書に載っていた、大岡信さんの「言葉の力」というエッセイだ。そのエッセイに、染色家の志村ふくみさんが桜色の着物を染めるエピソードが紹介されている。
大岡さんは、桜の花びらから桜色の染物ができると思っていたが、そうではなかった。桜が咲く直前の幹から樹皮をめくって煎じると、えも言われぬ桜色が出るのだ。
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旧約聖書を読むと、そこかしこに救い主イエスの出現が示されている(これを「予表」と言う)。
アダムとエバの時代から、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、イザヤ、それぞれの時代に神は介入して、そして将来の希望の約束としてイエスを予表した。
そうしてローマの時代、イスラエルの民にメシア待望論が巻き起こり、バプテスマのヨハネがヨルダン川に現れた。
イエスという桜が咲く前の、ヨハネという梅。梅が咲いているときに桜は咲いていないけれど、桜が咲く準備はすでにできていて、樹皮をめくればそこに桜色が潜んでいるように、民の心にも救い主の存在は植え付けられていた。
だから、イエスが登場したとき、人々はそれがすぐに救い主だと、桜だと気付くことができた。
桜はほどなく散ってしまうが、イエスも3年の公生涯を経て天に戻られた。でも来年また咲く桜のように、イエスもまた必ず帰ってこられる。
私たちは来年もまた必ず桜が咲くことを知っている。たとえどのような状況であっても咲くと信じている。イエスの再臨もまた同じように、必ずあることを信じている。