あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。
ピリピ人への手紙 1:9b-10a
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この聖句はニーバーの祈りを思い出させる。
引用しておこう。
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」
この祈りを知ったのはもう随分前のことだが、今でもよく口ずさむ。
神に求めるのは、変える勇気、変えない冷静さ、変えるか変えないかを識別する知恵の3つ。
その中でも特に識別する知恵、これが今日の聖句とリンクする。
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変えるにしても変えないにしても、行き当たりばったりで適当に決められるなら何の苦労もない。
しかし、実務においては、そんな状況などあるはずもなく、どうすればいいものかと常に悩む。
例えば、いまの組織の営業スタイルを変えるべきかどうか。全面的に変えるか、部分的に変えるか。全国で変えるか、地域別に変えるか。全体で変えるか、個人毎に変えるか。つまり、どの範囲(括り)でやるべきかでたいてい悩んでしまう。
KKD=勘・経験・度胸で、えいやっ!とやれたらいいのだが、あいにく慎重な性質なもので、そうはいかない。
そういえば、現代のKKDがあった。KKD=仮説・検証・データ分析、ってやつだ。
これがまさに識別するための知恵なのかもしれない。
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英訳を踏まえてこの聖句をよく読むと、こんな構造になっている。
愛(love)たくさん増し加わる(abounding)
↓
(in)知識(knowledge)+識別力/洞察力(depth of insight)
↓
そうなることで(so that)
↓
見分けることができる(distinguish/discern)
↓
何が大切なのかを(what is exellent)
つまり、ニーバーの言う「変えるか変えないかを識別するための知恵」も、パウロが言う「何が大切なのかを見分ける力」も、その根底には溢れる愛があるということ。
クリスチャンとしての心得だと思う。
善悪を見分ける知識の木の実。食べてはならないと言われたのに、悪にそそのかされて食べたアダム。
私たちはその罪の性質を引き継ぐ。
見分けようとすればするほど、自分の知識に頼り、神の愛から遠ざかる。そして罪の性質を纏い、神に背を向け歩んでしまう。
神の愛に留まろう。神の愛に留まって、何が大切かを見分けよう。
そんな2022年になりますように…。