たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
イザヤ書 1:18
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古典で雪といえば、枕草子第1段の「冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず…」が思い浮かぶ。
冬の早朝は少しでも長く布団の中に入っていたいから、清少納言みたいにはなかなか思えないが…。
さて、聖書で雪と言えば、イザヤ書第1章のこれだ。
罪が清められて雪のように白くなる、とある。
雪が降った日の次の日の朝(もちろん「つとめて」よりも遅い時間帯!)、外に出ると一面銀世界ですべてが清らかに見える。
雪のように白く、罪が清められた。そう思うのも不思議ではない。
しかし1つ、疑問がある。
白が清らかさを表すのは分かるが、罪がどうして緋色や紅色で表されているのか?
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教会の子どもたちとよく歌う「いろのうた」という賛美がある。
♪ 赤はイエスの愛、黒は心の罪、白は十字架で清めた心〜と歌う。
この歌では、罪は黒くて、イエスの愛が赤で表されている。
ドス黒い心と、ハートを表す赤。おそらく、この色の設定の方がしっくりくる。
ちなみに、教会ではこの歌を歌うことを禁じられた。教会にアフリカンアメリカンの子がいて、その子に配慮してという理由だ。
いわゆるPCじゃないのか?とモヤモヤするが、気にする方がいるなら仕方がない。
こういう配慮というか忖度というか、コロナ禍になって益々強くなっている気がする。
では、イザヤはなぜ緋のようなとか、紅のようなとか、罪を赤色で表したのか。
それは、罪がもたらした死を暗示しているからだ。
また、人の罪の贖いのために、イザヤが生きた旧約の時代には多くの動物の血が流されたからだ。
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イエスによる血の贖いを経た私たちは、もはや動物の血による代償を払う必要はない。
イザヤが記した罪の赤色は、イエスの血潮の赤色に置き換わった。
イエスの血潮とは、つまりイエスの愛そのものであるから、「赤はイエスの愛」という歌詞は正しいのだ。
まさしく赤十字である。
そして、罪は...。
目に見えない形で、私たちの心に内包されてしまった。
見えないがゆえに罪は粘着質で、心の中にべったりと張り付いている。
私たちの罪の性質は決して消えないが、張り付いた罪はイエスの血潮で流され、イエスの十字架によって清められる。
罪を認識し、悔い改める。清められる。方向転換して生き方を変える。
ここに、クリスチャンとしてこの世に生かされている意味があると思う。
「いろのうた」を賛美しよう。
https://youtu.be/SLnojATufcY