ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
ピリピ人への手紙 3:16
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
誕生日にちなんだ聖句がある。
といっても、ただ誕生日の数字を当てはめただけのもの。来週は、自分の誕生日なので誕生日聖句を取り上げようと思う。
さて、今日は3月16日。知り合いに誕生日はいないが、きっと誰かの誕生日だろうと勝手にこじつけて、ピリピ3章16節を取り上げてみる。
パウロのことば。
きっとココだけ抜き出してもよく意味が分からないだろうから、多少前後を補って理解してみよう。にしても、だ。前後の流れを読むと、不思議に思うことがある。なぜ、この聖句が私の心に留まったのだろう、と。
*
この聖句の前でパウロは
・主にあって喜びなさい(3:1)
・悪い働き人たちに気を付けなさい(3:2)
・神の御霊によって礼拝し、キリストイエスを誇りなさい(3:3)
・キリストにある者と認められるようになりなさい(3:9)
・キリストを捕らえようと追求しなさい(3:12)
・キリストイエスにあって神が召してくださるという賞をいただくために目標を目指して走りなさい(3:14)
このように話している。
追求する、走る、といったことから、1人1人異なる目標に向かって、自分なりのペースで、自分なりの方法で、それぞれが前進する、というイメージがわく。
だから、今いる地点を基準にして、そこからどれだけ前に(上に)進めるのかを考えればいい。
あの人は私よりもうんと前にいるから、もっと頑張らなければならないとか、あの人は私よりも後ろにいるから私は優れているとか(いやむしろ、あの人をもっと頑張らせなければならないと傲慢になるとか)、そのように他人と比べる必要はないのだ。
*
続きを読んでみると
・私たちを手本としている人たちに目を留めなさい(3:17)
・欲望を神と、恥ずべきものを栄光としないようにしなさい(3:19)
・地上のことだけを考えないようにしなさい(3:19)
・私たちの国籍は天にあり、そこから主イエスが救い主として来られるのを待ち望みなさい(3:20)
とある。
他人と比べることはないのだから、自分だけが自分の目標を目指してひた走ればいいのか、というと、それも違う。
神の愛、神の救いの御手は、あまねくすべての人に等しく差し伸べられている。気づくか気づかないか、受け取るか拒否するかは、私たちの自由意思に委ねられている。
しかし、いや、だからこそ、1人でも多くの人が、神の無条件の招きに応答して、自分の目標を目指してひた走ることができるようになってほしいと願う。
決していま置かれた環境を悔んだり、卑下したりする必要はない。神の御手を取り、いまこの場所から前進すればいい。