あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。
コロサイ人への手紙4:6
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この聖句、昨春も取り上げた。
先週、先々週と営業同行で西日本を行脚したのだが、新卒2年目から30代前半まで、日替わりで現地の若手メンバーと話す中で、この聖句が頭に浮かんだ。
客先に出向き、営業活動をして、終わったら営業車で移動して次の目的地に向かう。それ繰り返しながら、私にとっては顧客との対話も大切だが、それ以上に彼らとの対話こそ大切なのではないかと思わされた。
彼らの仕事観、いや世界観というか人生観は、理解が難しい。
20年も年齢が離れると、たとえば「次いってみよう!」と言っても、それがドリフやチョーさんだということがまったく通じない。
ちょっとメモ取ろうかと言うとスマホを取り出すとか、そうした些細なことからも感じる。
私たちが当たり前と思っていること、つまり常識であっても、彼らには理解できないことがある。それを分からせなきゃ!と思うのではなく、むしろ、私たちが彼らを理解しようと歩み寄るべきだと思う。
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クルマという密室空間に1:1でいるのは、なかなかの緊張感だろう。
何を話していいのか分からないかもしれない。
と思ったら、案外そうでもなく、気にしてるのは逆にこちらの方で、別に会話がなくても大丈夫のような気もする。
だから、親父ギャグで和ませようとか、流行りの音楽やファッションのことを話題にしようとか、そんなことをする必要はない。
そんなの痛々しくて哀れだろう。
むしろ正面から彼らと向き合って、仕事に対する考えや姿勢、また将来について、対話を試みる方が良い。
そのときに偏見や先入観を捨て、価値観の押し付けることなく、フラットに耳を傾けることが重要である。
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塩に塩気があってはじめてしょっぱい味がでるように、発する言葉にも塩気がなければならない。
このときの塩気とはなんだろう。
それは親切であり、寛容であり、謙遜であり…と挙げていくと、それはまさに御霊の実ではないかと気付かされた。
御霊の実とは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22-23)」である。
そうだ、何気なく発する言葉には御霊の実が宿っていなければならないのだ。仕事観や人生観を聞いて、対話しようと思ったら、間違いなくそうだ。
適度に塩味の効いた言葉で対話を行うことができれば、世代の差を超えて理解し共感できることがあるだろう。
そうありたい。
イエスキリストも塩気についてこんなことを言っている。警告的であるが…。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)
営業で顧客に素っ気ない対応をされると、彼らは「塩対応っすね」と言う。同じ塩でも真逆の意味だ。
どうせなら、ただしょっぱいだけじゃなく、味を整えるという塩本来の意味がいい。塩対応はダメだが、塩気対応は善なり。