聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

上への召し

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キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
 
ピリピ人への手紙 3章14節
 
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キリスト教の教義において最も理解が難しいのは、キリストが死んで復活したことではないだろうか。
 
もちろん、結婚前の処女マリアが身ごもってキリストが産まれたという話も、あぁそうですかと理解するのは難しいが、死からの復活はそれ以上に難解であるはずだ。
 
死生観が貧しくなった現代の日本では、死の現場に立ち会うこともなく、よって死は身近なことではなく、どこか遠くで起こるなにかだと思っているかもしれない。
 
けれど、昔、おそらくほんの数十年前とかまではそうではなかったはずだ。死んだ先祖を祀ったり、そう、神道では「亡くなった人は氏神となり家(子孫)を守ってくれる」と考えるし、仏教では輪廻転生して生まれ変わることを信じている。あ、浄土真宗は亡くなったらみな仏になって極楽浄土に迎えられるから少し違うか。
 
いずれにしても死んだらどうなるということに、今以上にもっと敏感でもっと身近に捉えていただろう。
 
かく言う私も、たいそうな死生観など持っておらず、田舎にある日蓮宗の寺の墓参りも親に連れられ、嫌々手を合わせては、そんなんじゃ先祖に怒られるぞ!と父親に叱られていた。
 
キリスト教に出会い、イエスキリストが十字架で死んで、墓に葬られ、三日目に復活した話を読んでも、なんとなくふ~んそうなんだ程度にしか思えなかった。
 

 
この手紙を記したパウロは、復活のキリストに会うまではユダヤ教のラビとして生きていたから、ユダヤ的死生観を信じていた。
 
ユダヤ教には「死後の世界」という概念はなく、神による最後の審判の日に魂が復活すると考えられている。
 
しかし、キリストの死と埋葬、そして復活を目の当たりにして、しかも直接名を呼ばれて対話をして諭されて目から鱗まで落としたパウロは、完全に180度方向転換させられ、改心した。
 
パウロの理解、それは、死からの復活は、キリストによらねばならないということであった。
 

 
パウロがピリピの人々へ宛てた手紙。今回の3章を14節から数節ほど遡って読み返してみる。
 
10. 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり
 
11. 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
 
12. 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
 
13. 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし
 
14. キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
 
復活を知ったことで生き方を完全に改めたパウロは、自らもまたキリストと同じように苦難に遭い死に、そして復活に達したいと、その恵みを捕らえたいと欲している。
 
捕らえようとしたが、実は恵みを得るようにと捕らえられていたという気付き、パラドックス
 
捕らえられた先にある上への召し(英語ではheavenward)、それはパウロにとって「賞」であり「目標」であった。
 
目標が明確に定まったら、あとはもうそれに向かってひた走るだけ。このパウロの決意が、後のキリスト教の広がりに大きな影響を与え、そしてその先に私たちが繋がっている。
 
私たちもキリストに捕らえられている。