聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

確信を失わない

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ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信 には大きな報いがあります。

へブル人への手紙 10:35
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報いを受けるというと、ネガティブな感じがする。

調べると元々は仏教用語のようで、因果応報とか自業自得に通ずる とのことだった。しかも、善い意味でも悪い意味でも、両方の意味 があるということがわかった。

因果応報も自業自得も、今では良くない意味で使われる。善い行い をしたから善い結果を得られる、というよりも、悪い行いをしたか らそれ相応の悪い結果を受ける、というように。

それ相応の悪い結果を受けるとき、私たちは、当然の報いを受ける 、と言う。

たとえば、Zoomのオンライン商談のアポイントのことをすっか り忘れていて、 顧客を数十分待たせてしまう大失態をしでかした数日後、別の顧客 とのオンライン商談のときに、いつまでたっても顧客が現れず待ち ぼうけを食らう、という経験をした。そのときなどは、ハハハこれ じゃ自業自得だな、と自嘲気味に笑った。

しかし、今日の聖書箇所で示されている報いは、善い方の意味である。

善い報いについて。

自分の信仰を振り返りつつ、少し真面目に考えようと思う。

神を知り、聖書を読み、キリストを受け入れ生きていこうと決意し 、そして洗礼を授かってから20年が過ぎた。

いいこともあったし、もちろん悪いことだってあった。

先日、大学院の授業で「これまでの自分の経験を振り返って、そこ からどんな教訓を得たのか?」という、内省的な個人ワークがあっ た。なんとなく、8に揃えて振り返ってみようと思い、8才、 18才、28才、38才、48才と区切って思い出していった。

自分の大転換点は28才にあった。

それまでの自分は、よく言えば天真爛漫だが、ハッキリ言って自己 中心で傍若無人で刹那的な生き方をしていた。そうして身体を壊し 、失業し、失意の中でもがいているときに三浦綾子の本に出会い、 貪り読んだ。本の舞台になっている北海道を旅して、それから教会 に通い、聖書に親しみ、洗礼を受けた。

それから結婚し、仕事を見つけ、身体も復調し、徐々に人生が上向 いていった。

1つ1つの事象を見れば、悪い行いに悪い報い、善い行いに善い報 いと思える。けれど、10年とか20年とかのスパンで見ると、神 によって善い報いを受けたと確信する。

今日の聖句では、確信を捨ててはならない、とある。

なぜなら確信には大きな報いがあるから、と言う。さらに、報いが あると確信することもまた必要ではないか、と思う。

ちなみに「確信」には、confidenceという英訳が与えら れている。

確信といえば普通はconvinceかなと思うが、confid enceなのは根拠の部分が異なるからかな、と疑問。根拠のある 確信はconvinceの方が正しいと思うのだが…。念のため辞 書を見ておくと、事実に基づく信念や確信がconvinceで、 事実に基づかない確信はconfidenceとあった。やはりな 。

しかし、事実に基づくかどうかは関係なく、convinceは確 信犯とか有罪とかちょっと負のイメージがあるから、confid enceの方がしっくりくるのかもしれない。他の英訳では、 courageと書いてあるのもあったから、きっとそうだろう。

この聖句のある「ヘブル人への手紙」10章の最後には

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びるものではなく、信仰に立 っていのちを得るものである、とある。

20年前に信仰を持ち、生き方を方向転換させたことは、キリスト によって新しいいのちを得たと言える。これを捨てることはない。

善い報いを通して得られる確信を、決して失ってはいけない。